「ねぇ、空に名前ってあるの?」

 ものみの丘の上、風に揺れる芝生の上で寝そべりながら、真琴はすぐ隣で読書に耽っていた美汐に話しかけた。

「空の、名前ですか?」

 美汐は読みかけの本から顔を上げ、視線を空へと向けた。

 

 空は、どこまでもつづいていた…………

 

 

<日常の中のキセキ>

 

 三月も終わりに近づいたある日、真琴と私は『ものみの丘』へと出かけました。もちろん、ピロも連れて。

 真琴を水瀬先輩の家に迎えに行くと、玄関で祐一さんに会いました。

「よっ、天野。日曜の朝から真琴を連れてどこへ行くんだ?」

 祐一さんが気さくに話し掛けてきました。祐一さんは今年の初めにこの町に越してきて、私の中でいつまでも膨張し続ける悲しみを取り除いてくれた人です。そして、私と真琴をめぐり合わせてくれた人でもあります。

「ものみの丘まで、ちょっと」

 私が言うと、祐一さんは、

「真琴のヤツ、最近肉まん食っては漫画読みながら寝そべってるからなぁ……。かなり運動不足になってると思うから、鍛えてやってくれよ」

 祐一さんはそう言いますが、私は体育会系じゃありません。

「運動については、水瀬先輩に言ってください」

 そう言って、丁寧にお断りしました。

「それもそうだな」

 祐一さんは頷いていましたが、ふと顔を上げて、

「いや、それは無理だな」

「?」

 何故です、と訊いたら、祐一さんは苦笑いをしながら、

「あいつは休日はたいてい寝てる」

 なるほど。

 それもそうですね、と頷くと、祐一さんは笑いながら、

「俺や天野が、頑張らないとな」

 私も微笑みながら、

「頑張りましょう」

 お互いに笑い合いました。

 しばらくすると、祐一さんは靴を履きました。

 今更ながら、祐一さんが外着なのに気付きました。

「どこに行くんですか?」

 私は祐一さんの邪魔にならないように家に上がらせてもらいました。

「ん?ああ。舞と佐祐理さんが大学行くためのアパート借りたから、ちょっとお祝いにな」

 川澄先輩と倉田先輩ですか。そういえば、祐一さんは前に、そのお二人と一緒に暮らすとか暮らさないとか言っていたような気がします。

 確か、その件は川澄先輩たちが近くの大学に通うことになったので、保留になったとか。

「あゆも行くんだよ」

「あゆさんも……ですか」

 祐一さんが口にした“あゆさん”という女の子は、七年間も意識不明だったそうです。

 あゆさんは小学生のようです。

 いつも羽根付きのリュックを背負っています。言動も、小学生のそれですが、私よりも年上らしいです。

 とても素直でいい人です。

 祐一さんはあゆさんのことを、“単純”と言いますが、私はあゆさんは純真でいい人だと思います。

「ああ。そういえばなぁ、天野」

「なんです?」

 祐一さんはしばらく悩んでいましたが、

「ヤッパ、いい」

 そう言って、靴のつま先で床を叩き、靴をしっかりと履きなおしました。

「なんです?気になるじゃないですか」

「いや〜、じゃあ、一応、天野にも聞いとくか」

 祐一さんは頭をぽりぽり掻きながらバツが悪そうに言いました。

「いやな、女の子ってどんなものをプレゼントされれば喜ぶか……分かるか?」

 何で疑問系なんでしょう。私も女の子です。

 そりゃあ、多少はおばさんくさいとは言われますが……。よくは分かりませんが、何かけなされているような気がします。少し、“かま”をかけてみましょう。

「祐一さん、私のどこが女の子らしくないんですか?」

「え?そ、そんな、俺は別に天野がオバンくさいとか全然思ってないぞ!!」

 ならなんで、そこまで慌てふためいているのでしょうかね。

「私はおばさんくさいんですか?」

 今の私は不機嫌な表情に違いありません。きっと少し眉を寄せて、目を細めているのでしょう。その表情を見て祐一さんが、

「そんな仕草がおば……」

「この仕草がどうかしましたか?」

 私は、自分が怒っているところを鏡で見たことがありません。まあ、当然といえば当然ですが、自分の怒っている表情など知りません。が、おそらくはいつもこんな表情だろうとの感じはします。その表情をおばさんくさいとは、心外です。

「祐一さんはこの仕草がおばさんくさいと?」

 私はさらに目を細めます。

「いや、だから……俺は別に天野がオバンくさいだなんて……言って、ない」

「本当ですか?」

「ほ、本当だって!!」

 祐一さんはますます慌てて、身振り手振りも大袈裟に言い訳をしてきます。

 私はしばらく観ていましたが、頃合を見計らって、「時間……」と言いました。

「えっ!?」

 祐一さんは何かに弾かれたように腕時計を見ました。そして、「げっ」と言い、顔をしかめました。

「え……、え〜〜っと」

 祐一さんは私の顔色を伺っているようです。チラチラと私の顔と腕時計を見比べています。時間はひたすら流れて行きます。私はひたすら無表情です(多分)。祐一さんはひたすら慌てています。祐一さんの顔にはびっしりと脂汗が浮かんでいます。

 そろそろ潮時です。

 これ以上続けていると祐一さんは発狂してしまうかもしれませんし、何よりもあゆさんを待たせるわけにはいきません。

「私はもう気にしていませんから。そろそろ行かないと、あゆさんが拗ねてしまいますよ」

「そ、そうか?」

 祐一さんはホッ、としたようです。引きつった笑みが、やっといつもの祐一さんらしい笑顔に戻りました。

 しかし、ここであの暴言を忘れてもらっては私が納得いきません。一応、祐一さんがドアを開けるのと同時に、

「祐一さん、今度私が知っている、う〜〜っんと、おばさんくさい知識を教えてあげますね」

「っ!! なんか微妙に話しが食い違ってるような……」

 祐一さんが未練ったらしくドアのところに立っています。

 私は微笑みました。

 祐一さんも引きつった笑みを浮かべてくれました。そのとき、

「あらあら祐一さん。まだいらしたんですか。お時間は大丈夫なんですか?」

 リビングへと通じるドアを開けて、この家の家主である秋子さんが顔を出しました。

「ああ!!そう言えば!?」

 祐一さんは慌てて家を飛び出しました。

「いってらっしゃい……」

 私は手を振ってお見送りしました。

「美汐さん、いらっしゃい」

 秋子さんが温かい笑顔で私を迎えてくれました。

「今日は。秋子さん」

 私も会釈しました。

「どうぞ、今お茶菓子を持ってきますから」

 秋子さんは私をリビングへと通してくれました。

「おかまいなく」

 私は勧められたソファーに身体を預けました。

 いつ来ても、ここは落ち着きます。まるで自分の家にいるようです。日当たりもよく、風通しもよい、家主さんも、そこに住む人たちも優しい人ばかりです。まさに、絵に描いたような幸せの風景です。

「ふぅ……」

 ため息などを吐き、視線を辺りに巡らせていると、私の隣のソファーに“ラジカセ”なるものがちょこんと鎮座していました。

「?」

 どうしてこんなところにラジカセが……?

「このラジカセですか?」

 お茶菓子と急須それにお湯呑みを乗せたお盆を持ってリビングに戻ってきました。

「これでラジオを聴くんですよ」

「秋子さん、ラジオを聴くんですか」

「ええ、息抜きに」

「そうですか……」

 私は少しの間、ラジカセを眺めていました。

 とぽぽぽ……、という急須からお湯呑みにお茶を入れる音が聞こえて、私の前にお茶菓子として秋子さんが持ってきてくださったお饅頭と湯呑みにはいったお茶が置かれました。

「じゃあ、真琴を呼んできますから」

「あ、すみません」

 お盆をいったんキッチンに戻しに行き、秋子さんは真琴を呼びに二階へと上がっていった。

 おいしい……。

 秋子さんが出してくださったお饅頭はとてもおいしく、今までに食べたことのない味でした。

 これも、手作りなんでしょうか……?

 祐一さんが言うには、この家にあるものの大半は秋子さんの手作りらしいのですが、もしかしたらこのお饅頭もでしょうか。世の中には分からないことが多いです。

 そんなことを考えながらお饅頭をいただき、お茶(さすがにこれは手作りではないでしょう)も半分ほど飲んでくつろがさせていただいていると、ドタドタと騒がしい足音が聞こえてきました。

「そんなに急がないの」

 秋子さんの、子供をあやすような声が聞こえてきました。

「あぅ〜っ…」

 きっと、この声の主は今頃涙目でしょう。

「早く髪梳かないとぉっ…」

「はいはい。手伝ってあげますから」

「あぅ〜っ…」

 声が遠ざかっていきます。髪を梳くとか何とか言っていたから、洗面所に行ったのでしょう。

 しばらくすると、バタン、と大きな音を立ててドアが開き、真琴が顔を出しました。

「待った?」

 真琴がドアのところから顔だけ出して、私の方を上目遣いに不安な眼差しを向けてきました。私は微笑んで、

「待ってなんかいませんよ」

 ぱあぁ…、と真琴の表情が明るくなります。

「ほらね。美汐さんはそんなことじゃ怒ったりはしませんよ」

 真琴が私の横にちょこんと座ると、秋子さんが真琴の外行き用の上着を持ってきました。

「ありがと、秋子さん」

 真琴は上着に袖を通すと、

「行こ!」

 と、私の袖を引っ張ります。

「少し待ってくださいね。すぐにお茶を飲みますから」

 私はお湯呑みを手に取りました。

「!!」

 なんと、茶柱が立っていました。

 今日はきっといいことがあります。

 私は茶柱を倒さないようにゆっくり、ゆっくりとお茶を飲みました。

「…ふぅ……。それじゃあ、行きましょうか」

 お湯呑みをテーブルに置き、秋子さんにお礼を言ってから私は玄関に行き、靴を履き始めました。

「あっ!!」

 真琴が大声を上げ、靴を脱ぎ捨てて二階へと上がっていってしまいました。

「どうしたんですか!?」

 私も靴を脱いで階段の上のほうを見ました。

「ぴろも行くのぉ〜」

「ああ……」

 そういえば、いつもは真琴が頭の上に乗せている猫を今日は乗せていなかったですね。

「ぴろ〜、どこー?」

 真琴がどたどたと二階を走り回ります。

「真琴、そんなに騒ぐと……」

 私が注意しようと声を上げたけれど、時既の遅し、でした。

 がちゃり、という音とともに、

「おはようございま……すー」

 名雪さんが起きてきました。といっても、挨拶の途中ですでに寝てしまったようですけど。

「わっ!!立ったまま寝てる……」

 真琴が水瀬先輩を見て驚いています。

「にゃあー」

「?」

 私の足に何かが擦り寄ってきました。

「ぴろ……」

 ぴろがここにいるいじょう、真琴が上で騒いでも仕方ありません。

「真琴ー!ぴろはここにいるから、早く降りてきなさい。水瀬先輩の睡眠の邪魔になるから」

「えーっ!このままにしておいてもいいの?」

 “このままにしておく”とは、水瀬先輩のことでしょう。祐一さんが言うには、水瀬先輩の特技は立って寝る事だとか……。だとしたら、心配は無用です。

「いいから早く降りてきなさい」

 私はぴろを抱き、靴を履きました。

 つま先をとんとん、と地面に打ち付けて靴を履いていると秋子さんがリビングから顔を出しました。

「美汐さん、これで真琴と肉まんでも食べてね」

 そう言って千円札を私に手渡しました。

「真琴に渡しておいたらすぐに漫画を買ってしまうから……」

 秋子さんは頬に手を当て、こまったものね、といった表情になった。ほんとうに、こういった仕草が似合う人です。

 私は断ろうとしましたが、私が断っても秋子さんはきっと真琴に渡すでしょうし、もしそうなったら真琴はすぐに使い切ってしまうでしょう。それらのことを考えたら、私が貰っておいたほうがいいことは確かです。

 私はお礼を言いながら、秋子さんから千円札を受け取りました。そこにちょうど、真琴がやってきました。手になにやら持っています。

「真琴、それは?」

「これ?」

 真琴は手に持っているかえるをかなりデフォルメしたキャラクターが描いてある手提げかばんを指差しました。

 私が頷くと、真琴は得意げに話しだしました。

「これはね、漫画が入ってるの」

 そのかばんはどうしたの、と聞きたかったのですが……。まあ、おそらくはそのかばん、水瀬先輩のお下がりでしょう。

「ものみの丘で読むの」

 真琴がとても嬉しそうに話すので、私は「そう…」とだけ言って、微笑みました。

「それじゃあ、行きましょうか」

「うん!」

 私たちが玄関から出ようとすると、

「夕飯までには帰ってきてくださいね」

 秋子さんが見送ってくれました。

 私たちは他愛もない会話をしながら、商店街を抜けていきました。商店街は、春休みということもあり、学生でごった返していました。

 途中、あゆさんと祐一さんに会いました。

「よう、天野。また会ったな」

「こんにちは!」

 祐一さんはゲームセンターのクレーンゲームで取ったのでしょう、両手いっぱいにぬいぐるみを持っていました。私がそのことについて尋ねると、祐一さんは得意顔で、

「だてに、“クレーン荒らしの祐一”と呼ばれちゃいないぜ」

 と、わけの分からないこと言いました。

「あのね、祐一くんったら、意地張って三まムグウゥ!」

 祐一さんは何を思ったか、あゆさんの口をぬいぐるみを落としてでも押さえてしましました。

「あ、あははは……。ま、まぁこんなに取れるとは予想外だったからな、これからちょっとしたかばんでも買いに行こうかなー、なんてな!」

 かなり慌てていますね。大方、クレーンゲームで予想外にお金を使ってしまったんでしょう。

「それでな、ついでにそのかばんもプレゼントにしようかなー、なんて考えててな!お!真琴、そのかばん可愛いな。舞あたりが喜びそうだぞ」

「このかばんダサイって、祐一前に言ってたじゃん!」

 墓穴を掘りましたね、祐一さん。

「そ、そうだったか?まぁいいじゃないか!真琴、そのかばんどこに売ってたんだ?」

「知らないよ。知ってても教えてあげないよーだ」

「こ、この……」

「祐一くん、待ち合わせの時間に遅れちゃうよ」

「そ、そうか!」

 祐一さんが、助かった、といった表情になりました。顔には汗の玉が幾つか浮かんでいました。

「じゃあ、そういうことだから。またな!」

「バイバイ」

 祐一さんとあゆさんは並んで歩き出し、人ごみの中へと消えていきました。

「いっちゃたね」

 あゆさんに手を振っていた真琴が私の顔を見てきました。

「…………」

 私の顔を見る真琴の瞳が私に“何か”を訴えてきます。

「?」

 私はしばし考えましたが、思いつくことといったら……。

「真琴、私たちもクレーンゲームをしてみましょうか」

「うんっ!」

 真琴が嬉しそうに頷き、私の手を引っ張って行きます。

「こっちだよ」

「分かってます、よ」

 思わず小さい子供に足が当たりそうになったので足を引いたら、私の後ろにいた誰かに、私の足がぶつかってしまいました。

「???」

「すみません」

 私は半ば引きずられながらも、謝罪しようとしました、が。

「お!お前は水瀬ん家にいた……」

 私が足をぶつけてしまった人――金髪の男の人でした――は、真琴を見て声を上げました。

「?」

 私は男の人を一瞥してから、真琴を見ました。まさか真琴に祐一さん以外にも男の人の知り合いがいるとは知りませんでした。

「あぅー…」

 しかし真琴はその男の人とあまり親しくはないようです。私の服の裾を掴み、私の背中に隠れてしまいました。

「おいおい、そんなに警戒しなくても……。ほら、前に水瀬ん家で会ったろ?」

 真琴はなかなか私の後ろから出ようとしません。

「ふぅ……。まあ、いいか。ところで……」

 男の人の視線が私に向きます。真琴と会話は出来ないと判断したのでしょう。

「私ですか?私は真琴の友達ですが。彼方は何ですか?」

 男の人にいきなり話しかけられたことなど、皆無に等しいので私は少し警戒しました。

「何ですかとはこりゃまた……。ふぅ。まあ、いいか」

 男の人はやれやれ、と言いたげに首を振り、いきなり胸を張って喋りだしました。

「俺は、北川。相沢祐一のマブダチだ!」

「マブダチ……?」

 あまり聞かない言葉ですね。

「おう!マブダチもマブダチ。相沢とは親友以上、愛人未満という素晴らしくも悲しい関係だ」

 どこらへんが悲しんでしょうか?よくは分かりませんが、ともかく悪い人ではなさそうです。少し変ではありますが……。

「俺と相沢の関係を説明しだしたら、一日二日じゃ語りつくせないぜ!」

「あなたと相沢君の関係は、傍から見れば『あほ』と『ばか』よ」

 北川さんの後ろから女性らしい落ち着いた声が聞こえてきました。

「!? そんなふざけたことを言うヤツは……」

 北川さんが右側に跳び退きました。

「!! そこには花壇が……」

「ぬおおぅ………!!」

 ズズン……、といった感じで、北川さんは膝の高さまである花壇につまずき(つっこみ)、頭からこけました。

「…………」

 まぁ、何はともあれ、これで声の主が見えるわけで。

「こんにちは」

 そこにいたのは非常に落ち着いた雰囲気を纏った女性でした。“大人の女性”といった感じでした。

 挨拶をされたので、私もとりあえずは挨拶を返しました。真琴も、頭の上にピロを乗せたまま、なんとか「こんにちは」を言いました。

「みーすぅわーくぅわー」

 北川さんが、まるで地獄から這い上がってくる鬼のような顔をして立ち上がりました。、いえ、実際に北川さんの顔は血で赤く汚れていました。頭から思いっきりアスファルトに突っ込んだのです、そりゃあ怪我もするでしょう。

「あら、北川君。まだいたの?」

 みさかさんはからかっているのではなく本当に、いたの、と北川さんに言いました。

「な………!!!!」

 北川さんはしばらくの間、固まっていました。

「………ハッ」

 みさかさんが痺れを切らして、私たちに「さようなら」、と言って去ろうとしたときに、北川さんは復活しました。

「ま、待て美坂!自分の彼氏が怪我をしているのに放っておくつもりか!?」

「ちょっ、北川君!声が大きい」

 美坂さんは大急ぎで北川さんの口を塞ぎました。北川さんの血が付いても、全く気にするそぶりを見せません。それよりも、

「大きな声出さないでよ。ここをどこだと思ってるの」

 道行く人々の視線は、この血を流しながら叫ぶ男に集中していました。

「ほら、血を拭いて上げるから。取りあえずさっきまで一緒にいた栞を見つけてから病院に連れてってあげるから。そんなに騒がないの」

 美坂さんはハンカチをかばんから取り出し、北川さんの頭から流れ出ている血を拭き取りました。

「……すまん。美坂」

 人々の視線はもうほとんどありませんが、北川さんは顔を真っ赤にしてうつむきました。

「これでよし」 

 美坂さんが北川さんの血を拭き終え、北川さんの身体に付いた埃などを払い落としました。

「それじゃあ」

「またな」

 北川さんと美坂さんは仲良く手をつなぎ、人ごみの中に消えていきました。

「あぅ〜…」

 忘れていました。

「クレーンゲーム、でしたね」

「うん!」

 やっとのことで、ゲームセンターに辿り着きました。

「どれにしましょう?」

「この狐さんがイイー」

 クレーンゲームの前で、どのぬいぐるみが取れやすいか悩んでいると、またしてもおかしな人がやって来ました。

「何をお悩みですか?」

 やたら偉そうな声が頭の上から降ってきたのです。

「?」

「いや、これは失礼。困っている人を見逃せない性分でして」

 その声の主――どこかで見たことのある男の人――は、私たちの前にあるクレーンゲームを見て、

「ほう…、クレーンゲーム、ですか」

 片眉だけを吊り上げるといった、いかにも権力者といった風を醸し出して、ポケットをなにやらあさり始めました。

「こう見えても僕は、幼少の頃“クレーン久瀬”と呼ばれ、ゲーセンのおやじたちには恐れられていたものです」

 なにやらクレーン久瀬さんは語りだしました。

「まぁ、見ていてください」

 そう言ってクレーン久瀬さんは百円玉をいろいろなところから出しました。ズボンについているポケット(計4つ)と、財布の中から。両手いっぱいに百円玉を持って、クレーン久瀬さんはしばし考え込んでいましたが、ふらり、と両替機まで行き一万円札やら千円札を何枚か両替していました。

「これくらいでいいでしょう」

 百円玉の富士山を背に、クレーン久瀬さんは気合を入れていました。

「………」

 真琴がかなり不安そうな眼差しを私に向けてきます。

「大丈夫。ちょっと(かなり)変だ(怪しい)けど、悪い人ではない(と願う)から」

「あぅ〜…」

 真琴の不安な眼差しや、私の視線を背に、クレーン久瀬さんは百円玉を二枚投降しました。この手のゲームは、百円だと一回、二百円だと三回といったようなお得な機能が付いているのです。

「いきます……!」

 クレーン久瀬さんがボタンでクレーンを操作しだしました。

 

 百円玉の富士山も、三十分も経てば標高は四分の一くらいになってしまいました。

「あの、もう……」

 これ以上はこのクレーン久瀬さんに悪いような気がします。しかし、クレーン久瀬さんは、

「そうはいきません。せめてこの百円山がなくなるまではやりますよ」

 いつの間にか『百円山』と命名された山ですが、もう始めの十分の高さしかありません。

「いくぞ!!」

 もう、何度その科白を聞いたでしょうか。クレーン久瀬さんは気合を込めて百円玉を投入し、クレーンを操作します。

「そこだ!いけ!!」

 その科白も何度も聞きました。が、今回は何かが違うようです。

「……あ」

「?」

 真琴が嬉しそうな声を上げます。

「こい!!!!」

 クレーン久瀬さんが叫ぶのと、ぬいぐるみが出てくるのは同時でした。

「よー、し!!」

 クレーン久瀬さんは四十分という長い戦いを終え、[いぬ]のぬいぐるみを手に入れました。

「ふぅ。すみません、時間をかけてしまって」

「いえいえ。ありがとうございました」

 私はクレーン久瀬さんから[いぬ]のぬいぐるみを受け取りました。

「……きつね」

 真琴はなにやら不満だったようですが、クレーン久瀬さんは満足顔で頷き、

「また、お会いしましょう」

 とだけ言って、ゲームセンターを出て人ごみの中に消えていきました。

 

 その後、私は二百円かけて真琴にきつねのぬいぐるみを取って上げました。

 

「肉まんでも、買いましょうか」

「うん!」

 私と真琴は秋子さんに貰った千円を使い、それぞれ肉まんを二個ずつ買って、ものみの丘へと向かいました。

 

 

「すぅー……」

 真琴は木陰で穏やかな寝息を立てています。ぴろもその隣で眠りこけています。

 ものみの丘で漫画を読んだり、ぴろと遊んだりしていて疲れたのでしょう。なによりも、肉まんを二個半(私の分を半分分けてあげたので)も食べて、お腹がいっぱいになってしまったんでしょう。

 そんな、気持ちよさそうに眠る一人と一匹を眺めながら私はいまだに、真琴がさっき訊いて来た『空の名前』を考えていました。

「この、空の名前……」

 空には雲が幾つか流れていて、どこまでも澄んでいました。

「名前……」

 私もだんだん睡魔に襲われ始めました。考えがまとまりません。

「…………」

 しかし、そんな睡魔なんか吹き飛んでしまうような出来事が起こりました。

「雪……!!」

 もう四月は目の前だと言うのに、さっきまであんなに天気がよく、朝の天気予報でも雪が降るなんて一言も言ってなかったのに。

「何で……?」

「それはね、春を知らせるためだよ」

「!?」

 いつの間にか、私の後ろには人が立っていました。いえ、それは人ではなく………。

「な、何で……!!?」

 私の後ろに立っていたのは、私がどんなに忘れようとしても忘れられない、大切な、決して手放したくはなかった思い出が……。

「どう、して………」

 私はその場に泣き崩れてしました。

 口元を押さえ、必死で嗚咽をこらえ、声を出そうとするのですが、出てくるのは喘ぐような泣き声だけでした。

「彼方にお礼がしたかったから」

「………?」

「思い出をたくさんくれて、大切なものをくれたお礼を言いたくて」

「………!!」

 お礼を言いたいのは私も同じ、と言いたかったのですが、出てくるのは嗚咽と涙だけでした。

「この雪は、春を知らせるために降る雪」

 何を伝えようとしているのか、私にはまだよく分かりません。

「ねぇ、美汐。雪が溶けたら、何になると思う?」

 以前と全く変わらない笑顔で、消えてしまう直前まで決して崩さなかった笑顔で、私に問いかけてきます。

「………?」

 私は、涙で霞む視界をなんとかしようと目を擦りながら、言葉を紡ぎだしました。

「雪が溶けたら……」

「溶けたら?」

「雪が溶けたら、水になるんじゃ……?」

 当たり前のことなのに、私はその答えを言うのが少し、怖かった。

「水……、それもあるけど」

「………?」

 ヤッパリ違うのか、と私は思いました。けど、そうしたら何になるんでしょう?

「雪が溶けたら…」

「溶けたら?」

 今度は私が答えを待つ番です。

「春になるんだよ」

「え?」

「雪が溶けたら、春になるんだよ」

 笑顔で、まったく変わらない笑顔でもう一度繰り返しました。

「は…春……?」

 意外な答えに私は戸惑うばかりでした。

「そう、春」

 私が聞き返しても、笑顔で同じ事を繰り返します。

「この白い結晶が起こした奇跡、幻想(ゆめ)……。それらは季節とともに巡っていく……」

 ゆっくりと視線を空へと向けていきます。

「…………」

 私もつられて、視線を空へと向けます。

「この雪は、最後の奇跡を起こすために。季節の終わりを、そして始まりを知らせるために降る雪」

 歌を歌うように、夢物語を語るような、頼りなく抑制のない口調でした。

「じゃあ……」

 この雪が溶けたら真琴の好きな季節が……。

「夢は、巡っていくものだから。風とともに……」

 真琴に歩み寄るにつれて、その姿は蜃気楼のように頼りなさげに揺れ動きます。それは単に私自身が流す涙のせいではなく……。

「巡っていくから、また、逢えるよ」

 その手が真琴に触れようとします。私は何故だか、その手が真琴に触れてはいけないような気がしました。

「だ、だめーー!!」

 私が叫ぶよりも早く、その手は真琴に触れ、そして……。

「また、逢えるよ」

「……う、うぁ………」

 私は、まるで子供が母親にすがりつくように、力強く、その身体を抱きとめました。でも、その身体は次第に現実感がなくなっていき、儚げに揺れる蜃気楼のようにぼやけていき……。

「本当に、あ…逢えるんですね?」

「だって、私が辿り着く場所は……」

 消えてしまいました……。

 白昼夢だったのでしょうか。そんなはずはありません。だって……。

「さようなら。また逢いましょう――――」

 約束、しましたから。

 

 

「すみません、私までお言葉に甘えさせていただいて……」

 あの後、私は真琴が起きるまで待って、ものみの丘を降り、真琴を水瀬先輩の家まで送っていき、それからすぐに帰るつもりだったのですが……。

「かまいませんよ。ごはんは大勢で食べたほうが楽しいじゃないですか」

 と、いうわけです。

 私が真琴を送りに来たときにはすでに、川澄先輩、倉田先輩、何故か北川さん、美坂さん、その妹と言うことで栞さんそれにあゆさん。そしてもちろんこの家の人々、合わせて九人がリビングにいました。そこに私と真琴、ぴろが加わり、十一人と一匹になりました。

「秋子さん、いくら大勢が楽しいとはいえこの人数はどうかと……」

 祐一さんは心配顔です。

「あらあら、構いませんじゃないですか、祐一さん。こうして料理も間に合ったんですし」

「で、でも……」

 祐一さんはまだ心配顔です。

「ねぇねぇ、この夕食って秋子さんが一人で作ったの?」

 真琴が祐一さんの裾を引っ張りながら訊いています。

「いいか、真琴」

 祐一さんはめずらしく子供に悟らせるように、優しく言いました。

「この世の中には知らなくていいことがたぁーくさん、あるんだ」

 まったくです。

「そうなの?」

 真琴は分かったような、分からないような顔です。

「はちみつくまさん」

「ほらな、舞もああ言ってるだろ。知ってしまったら……」

「あははーっ、せっかくの夕食が冷めてしまいますよ」

「それもそうだな」

「これ俺の!」

「ちょっと、北川君。行儀が悪いわよ」

「いいじゃないですか、お姉ちゃん」

「あ、それボクのハンバーグだよ」

「まったく、あゆはいつまでたっても、おこちゃまだな」

「うぐぅ…、そう言いながらボクのハンバーグ食べないでよ!祐一くん!!」

「あゆちゃんは小さいからこれを食べて相沢を見返すんだ!」

「うぐぅ…、ボクめざし嫌いだよ、北川さん」

「あゆちゃん、たくさん食べないと大きくなれないよ。ハイ、私のも食べていいよ」

「わあぁー、ありがとう。名雪さん」

 とても騒がしいけれど、不思議と不快ではない夕食の風景。私も、不思議と箸が進みます。

「おいしいね」

 真琴がぴろにめざしをあげながら笑っています。

「そうですね」

 私も自然と笑みがこぼれました。

 

 

「今日は、いろんなことがありすぎました…」

 私は家に帰り着き、お風呂に入りやっとベッドに入ることが出来ました。

「ラジオラジオ…」

 私はいつか買ってもらった携帯ラジオを机の引き出しから発見しました。そして、水瀬先輩の家から帰る途中に寄った駅前の電気屋で購入した単三電池(アルカリ)を入れました。ちなみにこの電気屋、今週の初めから開店十周年記念で、全ての製品が三十〜五十パーセントオフでした。ちゃんと、朝刊に挟まっていたチラシはチェック済みです。

「どこを聴きましょうか……?」

 私はラジオについてはまったくの素人なので、秋子さんから聞いておいた周波数に合わせました。

 ザザーー、という雑音がだんだん聴こえなくなり、代わりに女性の声が聴こえてきました。

『ラジオ・皆口さん家』

 軽快な音楽とともに、秋子さんと非常に声が似ている皆口さんの声が聴こえてきました。

『今日は、可愛いゲストがいます。坂本真綾さんで〜す』

『こんばんわー』

 今度は、私に声が似てるような……、気のせいでしょう。

『この番組には…』

『はい、二度目です』

『じゃあ、前とは違う質問を……』

 

 なかなか面白い番組でした。三十分でその[皆口さん家]は終わってしまいましたが、ラジオをつけっ放しにしておくと今日の雪についてのトークが違う番組から聴こえてきました。どうやら、今日のあの雪は日本中に降ったみたいです。

「雪は……」

 ふと、帰るときもまだ降っていたのも思い出しカーテンの間から外を見てみると、淡い、夢のような光景が広がっていました。

「きれい……」

 雪は、まだ舞っていました。

 そしてこの雪が溶けたとき………。

「真琴、今度は遠出をしましょう………」

 私はラジオを消して、布団にもぐりこみました。

 今度は真琴に自転車の乗り方を教えよう。そうしたらもっと遠出が出来る、などと頭の中で今度の休日のプランが出来上がっていきます。

 そういえば、真琴に空の名前について教えていませんでしたね。

 空の名前は………、『青空』。これでじゅうぶんじゃないですか。

 私は堕ちていく意識の中で、真琴に伝えました……。

 

 また、遊びましょう。

 

『逢えたらね』

 

 逢えますよ

 

『何で?』

 

 分かって聞いていますね

 

『どうだろうね。で、何で?』

 

 だって、“約束”したじゃありませんか

 

『そうだね………』

 

 また、今日のような日に逢いましょう。

 

『冬の終わりに…』

 

 春の初めに………

 

Fin.

 

 

〜あとがき とは名ばかりの駄文〜

 

 クルト・F・ステファンです。

 どうもこうもありません。テストが目の前です。しかも期末テストです。このテストで赤点を取ろうものならせっかくの春休みにもかかわらず、三十分という時間をかけて学校へ行かねばならなくなります。

 そうはいくか! と気合を入れてこの小説を書き上げました。(どないやっちゅうねん!!)

 私はKanonの中では一番真琴がお気に入りです。そして、美汐さんとは一番気が合いそうです。私もおばさんくさいのです。しかも殺人的に。だから、前々から書きたかった真琴&美汐ネタをこの競作ように書き上げました。

 この小説がみなさんのお目に触れるときにはすでに私は旅に出てると思います。決してテストから逃げるためではございません!赤点から逃げるためです!!

 まぁ、この小説にはKanonのキャラを全員出したつもりですが…

?「ふざけるな!!」

 何奴!?

?「貴様!北川の親友(?)である俺を忘れるとは何事だ!」

 ………?

?「貴様!久瀬を出しておいて何故に俺が出てこない!!」

 だから、誰?

?「斉藤だ!!!」

 ………! いたな、そんなの。

斉藤「そんなのとは何だ!! そんなのとは!?」

 うるさい!

斉藤「第一、なんで久瀬が出て俺が出ないんだ! 同じ顔なしキャラじゃないか!?」

 愚か者め!

斉藤「何!」

 久瀬はアニメできちんと顔が出た(らしい)んじゃ!!

斉藤「馬鹿な!?」

 本当だ。

斉藤「そ、それじゃあ俺も…」

 無理だな。どうせお前は『男子生徒A、B』あたりで片付けられている(と思う)。

斉藤「そ、そんな………」

 分かったらさっさと帰れ!

斉藤「うわあぁーーー!!」 ドタドタ……

 なんだったんだ一体? まぁ、いいでしょう。ときに、この小説の一番の盛り上がりに出てくる私自身よく分かんないキャラは、私は美汐が飼ってた妖狐だと思うのですが………。みなさんのご想像にお任せします。

 それでは、ながながとだべってしましましたがここいらで…。

 さようなら。

 

 追伸

 感想はここまで『clto@ezweb.ne.jp』。批判でも、指摘でもかまいませんので……

 ほんに、さよなら。

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送