平穏な日常の影 <前編>

 

 

 時というのは、実に残酷なものだ。

流れゆく水のように、それはけして止まることはなくて。

自分の知っていた風景は移り変わって、記憶の中からも消えてしまう。

自分の中から消えてしまうのが怖い、それ。

いつまでも消えなくて、自分を苦しめる、それ。

ずっと残していたい思い出も、つらくて切ない思い出も。

やがては来る、時の流れに翻弄されて形を変えてゆく。

思いは移ろうものだと、誰かが言ったのを覚えている。

だけど、時が移っても。けして変わらないこと。

過去。今ではない昔のこと。

それだけは消えないで、ずっと、ずっとその場所にあるから。

忘れたく無い過去を創ろう。

君の願う未来を叶えよう。

どんなにつらい過去があっても。

望まない未来しかなくても。

いつだって俺は、今を生きるしかないから。

何があっても、誰に言われても。

悔やむことの無い、恥じることの無い決断を。今――

「・・・だから、オレハ――――――」

 

 

 ぴくっ。

ここは危険だと、俺の中の声が告げた。

その予感を確信付けるかのように、俺の前に死神が鎌を持って迫ってくる。

すぐさま逃げようとするが、・・・だめだ。

相手の支配するこの空間では、非力な俺は奴から逃げうる術は無い。

俺は自らの死を覚悟する。

なら・・・せめて――

がしっ。

俺の手はがっしりと名雪の腕を掴んでいた。

名雪の表情にあきらかな焦りの色がうかぶ。相当焦っているようだ。

「わたし・・・朝練があるんだよ・・・」

「もう7時50分だ」

もしも朝練があったとしても、この時間ならすでに終わっている。

名雪、脱出失敗。ならびに死刑確定。

名雪はじたばたと最後の抵抗を試みるが、俺は掴んだ名雪の腕を離そうとはしない。

「いやっ、祐一嫌いっ」目は涙まで浮かぶ。

「旅は道連れ世は情けだ、気にするな」

「いやだよっ。離してっ、祐一っー」

「―――っ。だ、だめだっ」

たった一人でこの試練を乗り越えれる自信は毛頭ない。

「どうしたんですか?」

「「!!」」

やんわりと、間に入る声。

料理の鉄人。ジャムの帝王。水瀬秋子、その人だった。

 ここはその水瀬家、台所にあるテーブルその1。

柔らかな朝の光、ゆらゆらと立ち昇るコーヒーの香りと湯気。

何気ない、日常の朝。

でも、いつもそこに流れていた温かな気配はゆらりと消えて。

この場所は、戦場と化した。

「どうぞ」

どん。

そう言って置かれた一つの瓶。

ゆうに5sはあろうかという大量のジャムが目の前にある。

それだけで6人テーブルの4分の一が支配された。

毒々しいまでのオレンジ色。食欲どころか魂すらもなくすその色合い。

背中に、ひやりと嫌な汗が流れた。

そのジャムを前にして、名雪が慌てたように付け足す。

「あっ・・・わたし、イチゴジャム――」

「売り切れました」人気商品ですから。

「えっと、リンゴジャ――」

「品切れです」量産してませんから。

「なら、なら。バナナジ――」

「最近作ってません」不評ですから。

「あの、あの。ペディグリ―ジャム・・・」

「もともとありません」それ以前にドッグフードです。

全部、笑顔で否定される。

残るのは目の前にででんと置かれたアレのみ。

名雪の頬にも、ひやりと嫌な汗が流れた。

チェックメイト、もしくは王手。

そんな言葉が頭をよぎった。

我関せずと、俺は無言で何もついていないトーストを口に運ぶ。

「祐一さん」

ぴた。トースト急ブレーキ。

そして、目の前に例のアレジャムが差し出される。

「このジャム。試していただけませんか?」

試されました。もう既に。

そして、もう2度と、永遠に食べたいとは思いません。

居候である身がわずらわしい。そう言えればどんなにいいだろうか。

「・・・いただきます」

そういって、スプーンに少し例のアレジャムを少しとると。

おもむろに、隙だらけの名雪のトーストに塗りたくった。

それに気づいた名雪は、非難の視線を浴びせてくる。

「あっ、それわたしのだよ〜〜」

「おまえも食え」そして苦しめ。

「う〜〜」祐一、ひどいよ〜とは言えない。

理由は簡単。言わずとして知れている。

「どうしたんですか?」

ニコニコと変わらぬ笑顔で言う秋子さん。

それが、地獄へと誘う悪魔の笑みに見えたのは、きっとジャムのせいなのだろう。

やるしかない。

逝くしかない。

俺は恐る恐る、例のアレがついたそのトーストを口に近づけていく。

名雪も俺の後に続く。

まるで、毒物で無理心中する若いカップルのようだと思った。

開く口。早まる慟哭。そして、一口――

かじる。

(ぐはああっ)

心の中で、声にならない悲鳴をあげる。

例のアレジャムは前回より確実にパワーアップしていた。

全然嬉しくなかった。

(・・・涙が出そうだ)不味すぎて。

「・・・嫌だよっ・・・」

「ん?」

名雪の声が何かに耐えるように震えていた。

あまりのジャムのまずさに耐えかねたか。

――違う。

名雪の様子は、そんなことで起こるような反応ではじゃなく、あきらかにおかしい。

名雪は震える体を抑えるように、抱きしめるように、ぎゅっと手を組む。

「・・・もう、嫌だよぉ・・・」

「名雪?」

がたがたと振るえる身体。そして、光をなくした瞳は虚ろで、何も物を映していない。

何をも映さない目が見ている先は、今あるここではない。

過去。それも一度は閉ざしたはずの扉の奥にあったものだ。

確証はない。

だけれども、俺はそうであるとしか思えなかった。

「・・・――して、どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてっ――」

壊れた機械のようにただひたすら、過去の言葉を繰り返す。

「――っ名雪っ!!」

このままでは壊れてしまう。

俺はがたがたと震える名雪の身体を抱きしめる。

「――名雪っ。おい、大丈夫かっ!!」

すると、ふっと目の集点が定まって、名雪の顔に明らかな安堵の色が浮かぶ。

「ゆう・・・いち」

ふわりと、消える重み。

どさりと、俺に名雪が倒れかかってくる。

少し慌てながらも、俺はしっかりと名雪の体を受け止めた。

従弟の少女の身体は思っていたよりもずっと軽くて。

そしてどこか儚げだった。

 

 

 カチッ、カチッ、カチッ、カチッ、カチッ。

普段はまったく気にならない時計の音が耳のそこに張り付く。

俺は、ただリビングのソファーに座っている事しかできないことに苛立ちを覚えた。

『・・・もう、嫌だよぉ・・・』

苦しんで、悲しんで。助けを求めているような声。

それが、ずっと頭にこびりついて離れないる

「・・・くそっ」

訳のわからない焦りが、自分の心に襲い掛かった。

がちゃり。扉が開く。

ずしりと乗りかかる脱力感。俺は力なく垂れていた頭をあげる。

「・・・秋子さん、名雪は?」

「今のところは落ち着いています、大丈夫ですよ」

「そうですか・・・」

「ええ、今のところは・・・ですけど」

その言葉に、引っ掛かりを覚えるが、今は、それよりも――

「名雪には、病気でもあったんですか?」

「・・・ありませんよ。あの子は、名雪は健康そのものです」

なら、何故。

秋子さんはどさりと、俺の反対側にあるソファへと座る。

「だけど、精神的には違います」

「・・・精神的?」

「ええ、私の犯した過ちのせいで、あの子はトラウマを負ってしまったんです」

「過ちって・・・なんですか?」

思わず、口調が厳しくなる。

パッポー、パッポ―。場違いな鳩時計の音が時を告げた。

「それは・・・私が言うべきではありません」

悲しみを帯びた声。

「名雪に、あの子に聞いてみて下さい。祐一さんになら、話すかもしれません」

「・・・わかりました」

「・・・何か、聞きたい事はありますか?」

秋子さんのその顔からは、もうほとんど笑顔が消えかけている。

「じゃあ、一つだけ」

「どうぞ」

「あのジャムに、名雪がああなった原因はあるんですか?」

あのジャム。

あれを食べたとたんに名雪は、過去の記憶を垣間見ることになった。

とても、無関係だとは思えなかった。

「・・・あれには、特別な薬が入ってるんです」

「薬・・・ですか」・・・俺は大丈夫なのか?

「あの子の精神は、それほどの傷を負っていましたから・・・薬が必要だったんです」

「・・・じゃあ、なんでこんなことに?」

そうだ、秋子さんの言うことが正しいなら、名雪の精神は安定しているはずだ。

「どうも、今回調合を少し間違えたみたいです」

「・・・俺は大丈夫ですか?」

「大丈夫ですよ」

秋子さんの顔に、ほんの少し笑顔が戻る。

「祐一さんなら」

保証なんて、どこにもなかった。

「・・・ちょっと待ってください。本当に大丈夫ですか?」

「ちょっと駄目かもしれませんね」いたって笑顔

「・・・・・・」

俺は言葉を失った。

俺はこんな所で朽ち果てるのか。死因はジャム。それだけは避けたい。

「冗談です」

「・・・怖いからまぢで止めてください」

「祐一さんには何の害もありませんよ」

あの不味さは充分に毒だろうと思うが、口にはしない。

すると、秋子さんは立ち上がると廊下へ続く扉へと歩き出した。

扉の取っ手に手をかける。

「・・・祐一さん」

「なんですか?」

自分にかける声の厳しさに、思わず身体がこわばる。

「ちょっと、出かけてきます。名雪と留守。お願いできますか?」

「いいですけど。どこにいくんですか?」

秋子さんが、くるりと俺のほうへと向いた。

「あのこ、名雪にとって。これは避けられないことだと思います」

「・・・・・・」

「だけど、きっとあの子だけでは、心が折れてしまうかもしれません」

「・・・・・・」

「だから、祐一さん。名雪を支えてあげてください」

「・・・わかりました」

「ありがとうございます、祐一さん」

とびらが、ぎぃと開く。

この部屋から出て行く秋子さんの空気が、夜の校舎のそれと似ていた。

「それから、祐一さん」

「・・・なんですか」

「今日の夕御飯。何がいいですか?」

その言葉に俺は、度肝を抜かれた。

でも、それと同時に、俺の顔に笑みが浮かぶのが分かる。

「鍋物でも食べたいです」くすくすと笑みが零れる。

「・・・わかりました」

がちゃり。玄関の開く音。そして、閉まる音。

静まる部屋。その空間。もう、俺に日常として馴染んでしまった物。

それが、ほんの少し形を変えた。

同じ時なんてない。同じ日常なんてない。

日常は常に変化しながらも、根本的なものはずっと変わらなくて。

それが、ずっと、ずっと。終るまで続いていく。

これもきっと、日常の中の変化の一つ。

だったら、あるがままに受け止めてしまえばいい。

大切な軸があれば、きっとそこは俺の望んだ場所だから。

そこだけでも、守ることができれば、それでいい。

悔やむことは、後にならないとできないから、な。

どさりとソファに横になると、俺は視線だけを名雪の部屋へと向けた。

「・・・それで、いいよな」

目を閉じると、そこは暗い闇の世界。

かちっ、かちっ、かちっ、かちっ。

普段は気にならない、時計の針の進む音。

時が。

また、ひとつ。ひとつと。進んでいく。

 

 

 

あとがき

 前後編とか言う割には、いつもより比較的短い小説を書いた霧月です。

合計すれば、けっこう長くなるとは思うんだけどねぇ。

 えっと、今回。はじめてKANON恒例の謎で例のアレなジャムを出してみました。

KANON七不思議(?)の一つだね、あのジャムは。

しかし、これはいったいなんだろうなぁ?

ギャグ?シリアス?ほのぼの?・・・まあ、なんでもいいか。

小説の〜感想〜苦情〜意見〜合憲〜お待ちしております。

あ、メールアドレスって出しといたほーがいいのかな?んょっと。m-nono@mud.biglobe.ne.jp

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