――怖かった。
いつまでも続くと――そう思っていた幸せな日常があんなにも脆い物だということが。
気づいてしまった。
夏に、兄さんが三日間。目を覚まさなかったその時に。
ガラ、ガラと
、がらがら、と。
急速に、
いままで当然のようにあった日常は――あっけなく崩れ去った。
――怖かった。
日常の中にある微かな幸せを壊してしまうことを恐れていた。
きっかけは小さく、それでいて大きく崩れてしまう。
例えば、私が、兄さんを、一人の女性として、好きであることを、伝えるだけで――
――怖かった。
兄さんの前で精一杯虚勢を張ろうと、私は臆病なままだった。
新たな可能性を夢見て、完成された日常を自分の手で壊すことなどできるはずが無く。
それどころか、一歩進むのにも足元を確かめずには居られない。
足元を見れば、見えるのはガラガラと崩れていくという最悪の未来予想図。
ああ、まったく――
――なんて、なんてバカみたい…。
変わる日常 変わらない幸せ ― ideal ―
作 霧月
かち――かち――、と。
綺麗に整頓された部屋に時計の音だけが響き渡る。
開かれた本はずいぶん前から同じページを示してばかり。
私の目は確かにその本に向きながらもしきりにドアの向こうを気にしてしまう。
時間が止まったような部屋の中で唯一動いていた紅茶の湯気も、いまではそのなりを潜めていた。
私は、
――バカみたい…。
はぁ、とため息をついた。
本のページを抑える指を放して――パン――本を閉じると、私は椅子から立ち上がった。
――バカみたい…。
そう、それは例えば私の部屋にある小物の数々。
なぜか二つあるティーカップ。
なぜか二つある小さなクッション。
普通には分かりにくい位置にある兄さんの写真の入った写真立て。
その心は?
遠野の当主としてはいつ誰が来てもいいようにしなくてはならない。
――違う。
勿論違うのに、きっと私はそう答えてしまうのだろう。
どうして私は兄さんのことになると意地をはってしまうのか――。
遠野の当主であるとか、兄さんの妹であるとか、そんな事は何の関係も無い。
ただ一途に、私は私として、秋葉として、いつでも兄さんに来て欲しいと願っている。
それはほんの五分だってかまわないし、ドア越しだったとしてもどうしようもなく嬉しくなってしまう。
それほどに、気がつけばいつも兄さんのことばかりを考えている。
本を読んでいても内容も文字もまるで頭に入ってこない。
根を張るように頭の中にあるのはもしかしたら起こるかもしれない一秒先の出来事。
『秋葉? ちょっといいかな?』
そう言いながらコンコンと、ドアをノックする兄さんの姿。
夢想。
――バカみたい…。
けれども、実際にはノックの音はせず、兄さんの声も聞こえない。
それは飽くまで理想であって。夢、幻。
それは私がこの手でしっかりと輪郭を捉える前にぱっと儚く散ってしまうのだ。
ああ、まったく。
私は微かな憤慨を隠さずにはいられない。
休みの日ぐらい妹のところに来てちょっと話でもしようという心がけは無いのだろうか――。
逡巡。
――ああ、兄さんにはないんでしょうね。絶対。
自分で考えておきながらそんなことを思ってしまう。
気が利かなくて、鈍感で、唐変木で――大切な人のためには命を張り(私だけでないのが不満だ)、何より優しい――
だって、私が好きなのはそんな兄さんだもの――。
――バカみたい…。
ああ、本当にバカみたい…。
私はいつからこんな恋する乙女になったのだろう。
私の部屋に兄さんが来る事は――ほとんど――無いと知っていながら、ここで兄さんを待っている。
自然と前に羽ピンが読んでいた少女漫画の主人公が思い出された。
白馬に乗った王子様を待つお姫様?
そんなのは御免だ。
待っているだけ。
そんな事は無意味だと、長い間兄さんを待っていた私は知っている。
なら、やることは決まっているじゃない?
――つまり、本を読むのを止めて、立ち上がったのはそういうこと。
去り際に、ほんの少しだけ鏡を見て部屋を出た。
休みの日ぐらい兄さんのところに行ってちょっと話でもしようという心がけぐらい、あってもいいと思う。
そんなことを考えてしまった自分に苦笑しながら。
遠野の屋敷はむやみやたらと広い。
それこそ迷う事はないけれど、子供だった私たちにとっては探検するにふさわしい場所だったのを覚えている。
まあ、探検といっても、実際には兄さんの後をついて行っていただけなのですけど。
それでも、私にとってそれは間違いなく楽しかった時間だった。
遠野の屋敷はわけが分からないくらい広い。
それこそ迷う事は無いが、人を探しだすのは非常に難しい。
だから、兄さんが部屋にいないのであれば、私には何処にいるのか分からない。
分からないのならば誰かに聞けばいいだけのことなのだけれども。
――せっかく、せっかく私が会いに来たのだから居てくれてもいいのではないかと思う。
絶対に、会ったら文句言ってやるんだから。
さて、時刻はもうすぐ昼食という時間。
翡翠はこの館のどこかを掃除していると思う。
琥珀はきっとキッチンで昼食の準備をしているだろう。
知っているとは限らないが、兄さんが何処にいるか聞いてみようかと考えた。
――まあ、できるのならば翡翠に聞きたいのだけれども、それだったら兄さんを探すほうが早い気がする。
ただし、琥珀は鋭いところがあるから、できるだけさりげなく。
だって、――何の用も無いけれど、会いたくて、兄さんを探してるなんて――知られたら悔しいもの。
いつも通りに、いつも通りに。
「琥珀、兄さんを知らないかしら?」
口の中で二、三回呟いてキッチンへと歩いていく。
――ザク、ざく、ザク。
――ふ〜ん、ふふん、ふん♪
規則的に野菜を刻む音が聞こえるキッチン。
上機嫌に奏でられる鼻歌のリズム。
よかった。琥珀は居る。
「琥珀、兄さんを知らないかしら?」
琥珀のピーマンを刻む手が止まる。
包丁をまな板の上に置くと、こちらを向いた。
「志貴さんですか?」
ええ、と。私は答える。
「さっき部屋に行っても居なかったから――琥珀は知らないかしら?」
「はい。結構前ですけど中庭で黒猫さんと遊んでるのを見かけましたよー」
むしろ遊ばれてましたけどねー、と思い出したのか、ふふっと笑った。
黒い猫。
それはやはり、最近兄さんになついているあの黒猫のことだろう。
どうしてか私には近寄ってくれない(琥珀にも、いや、こっちは理由が分かる)名前も知らない兄さんの猫。
何時から居ついたのか分からないが、しかし最近だという事は覚えている。
それほどにその黒猫は、まるで昔からそこに居たかのように兄さんの近くに居るようになっている。
お気に入りの場所は、兄さんの膝の上。
どうしてか、私はそれを――
「どうしたんですか、秋葉さま?」
「…え?」
その声で、私は思考の海から帰還する。
…ああ、もう。
「なんだか難しい顔をされてましたよ」
琥珀の前で隙を見せるとは、一生の不覚。
――まるで、好きな人を取られた恋人のように、と、付け加えてまた笑う。
図星。
隠しきれない自分に対する憤り。
どうしてあんなに琥珀は鋭いのだろうか。どうして私は微妙に詰めが甘いのだろうか。
ああ、こんなことなら自分の足で兄さんを探したほうが良かった。
後悔先に立たずとはまさにこのこと。
――仕方ない。
分かった。分かりました、認めましょう。そう、確かに、私はあの名前も知らない黒猫に嫉妬している。
いや、それは嫉妬というよりも、憧れや羨望に近い感情。
僅かな期間で兄さんに好かれたあの黒猫が。
兄さんのことを好いていると、素直に全身で表現できる黒猫が。
どうして、どうして。私はあの場所にいないのか。
素直に甘えるときは甘えて、怒ったときは怒って、おかしいときは笑えるような自然な姿でいられないのか。
――私が、あの猫、だったらと、本当に、この上なく、羨ましく思えてしまう。
と、いう事は、琥珀にわざわざ言う必要もないんじゃないかな、と、――思わなくも無い。
むしろ、言いたくない。言うはずが無い。ええ、意地でも言うもんですか!
だから、とりあえず否定。
「別にそんなんじゃありません!」
「あはー、秋葉さまも素直じゃないですねー」
「ぅ、っ…――だ・か・ら! 何度違うと言えば分かるのかしら。琥珀」
そう言って、ガンをとば――いえ、ほんの少しだけ睨むように見る。
「では、そういうことにしておきますね♪」
そう言って、ようやく琥珀は引き下がった。
ここにいたら、余計なことを口走ってしまいそう。
兄さんの居場所も分かったことだし、長居は無用かもしれない。
もしかしたら用事も無く兄さんを探していることさえ見抜かれてしまうかもしれないし。
いつも通りに、いつも通りに。
「…私、兄さんに用事がありますから」
「はい、ゆっくりしてきてくださいね、秋葉さま」
「――っ!?」
――ああ、もう。
もしかしたらもなにも、完璧にお見通しではないか。
もし、また今度、兄さんの居場所を知りたいときは翡翠に聞くことにしよう。絶対に。
できるだけ早くここを去りたいが、あからさまにそうするわけにもいかず、結局、ほんの少し早足でキッチンを去った。
まあ、それでも。
私が思わず赤くなってしまったことに琥珀は気づいていると思うのだけれど。
………。
………………。
――今度は、琥珀を言い負かそう。
さりげなくだけれど、そう心に決めておいた。
「…いい天気」
息を吸い込み、ぐっと背伸び。
兄さんを探して中庭へと出てきた。
ざっ、とよく整理された芝生を踏みながら歩く。
太陽の光が暖かい。
一昨日降った雨の匂いがまだ微かに残っていてなんだか楽しい。
そろそろ完全に秋へと移り変わる今の時期は、少し暑いけれども、時たま吹く風が暑さを吹き飛ばすほど嬉しく感じられる。
それはまるで恋のよう。
会えない時は苦しいけれども、ほんの一瞬会うだけで、その苦しみなど嬉しさの前に掻き消えてしまう。
ざざ、ざ――
風が吹いた。
風になびく色づいた葉の、木の向こう、庭の小さなベンチに座る人影。
――ようやく見つけた。
こんな時間に、こんなところにいる人なんて、兄さんしかいない。
ざざ、ざ――
ああ、ほら、これだけでこんなにも胸が躍る――
「兄さ――」
近づき、呼びかけようとして、声が止まる。息が止まる。
それでも、歩み寄る足は止まらない。
時々吹く風。
空に舞う赤と緑の紅葉。
紅葉に飾られたベンチと、兄さん。
少し下にずれた眼鏡。
風に消されそうな微かな吐息。
兄さんの膝で丸まっている黒い猫。
『それは、まるで絵画に思えるほど完成された、一つの世界』
――なるほど。翡翠が言っていたのはつまりこういうことなのか。
胸の高まりは止まらない。
顔に熱が集まってくる。
自然と唇の端が吊り上げられ、私は笑みを浮かべていた。
まったく――こんなにも幸せそうに寝ているのでは、起す事などできるはずが無いではないか。
――それでも。
それでも、私は兄さんへと近づいていった。
『その世界は完成されるが故、絵画であるが故、手を触れるだけで壊れてしまいそうなほどに、儚く脆い』
気持ちの高まり。
頭によぎる不安。
胸にあるのは期待。
しかし、それが何を願っているのか、私には分からない。
ただ漠然と。
一歩、一歩、前へ進み、兄さんのそばに行くことだけを考えていた。
『完全とは同時に凝り固まるということ。その形だけと決められるが故に、壊すのは容易い』
きっと見たいのは、壊れた世界の未来の姿。
壊れろ。
壊れて見せろ。
壊れてしまったものは戻ることがないのだと証明して見せろ。
地獄絵図のような、最悪の未来予想図になってしまえ。
そうすれば、
そうすれば私は――
――どうするというのか?
とめどなく流れた思考の終結に、私は音を立てて立ち止まってしまった。
「――?」
ぴくっ、と、私に気がついたのか黒猫が顔を上げる。
目が合う。
絵画が。
世界が壊れる。
ああ、逃げてしまうかな。と、思ったがしばらくすると興味がなくなったかのようにまた体を丸めてしまった。
――修復される世界。
思わず笑ってしまった。
結局のところ考えるのは自分で、馬鹿みたいに、猫みたいに独り勝手に怯えるのも自分で。
きっと世界なんて、こんなものなのだ。
変わらずにはいられない。それでも、変わらないものも確かにあるのだ。
少しも動じずに昼寝を再開する黒猫が、なんだか妙に愛らしく感じた。
「ふふっ」
――まるで兄さんみたい。
この考えはあながち間違いではないだろう。
だって、似ている。
まるで関係ないように昼寝を再開するふてぶてしさや、でも――さりげなくこっちを気にしているしっぽや眼とか。
ペットと飼い主は似るというが、何となくそれがよく分かる。
――ああ、だとしたら、この猫が私に近づかないのはつまりはそういうことなのか。
――私は可愛くないなぁ、と一人で呟いた。
確かにお前は可愛く『は』ないね。と友人が言ったのを思い出した。
ああ、そうだ。
確かに、私は可愛くない。
兄さんが口うるさいと思ったり、関わりたくないと思っても仕方ない。
素直に兄さんを心配していると、慕っていると伝えればいいのに――なのにどこか壁一枚を通したような感じで接してしまう。
例えば朝とかの私は「妹としての秋葉」でなく「遠野としての秋葉」。
それなのに、どこかで私は妹であることに固執している。
それは、恐怖。
また、何処か遠いところに兄さんが行ってしまうのではないかという絶対的な不安。
私が妹でなくなった瞬間に、兄さんが消えてしまうような気がしてたまらない。
もちろん、そんなはずは無いのだ。
兄さんはそんな事はしないし、何よりもう私が本当の妹でないことなど知っている。
しかし、しかし、だ。私が妹であることはもう既に日常に組み込まれてしまっている。
「遠野の当主である妹の秋葉」として八年ぶりに兄さんに会ったそのときに。
――もう、遅い。
日常を壊す事は怖い。
それは、今約束されている幸せを賭けたギャンブルのようなもの。
良い方へと進むか、悪いほうへと進むか、一か八か。
もしも、失ってしまったら二度と取り戻す事は叶わない。
だから、私はこうするしかないのだと思っていた。
思っていた。
――そう、それがついさっきまでの考え。
ああ、まったく。
こんなにも幸せそうに寝ている兄さんを見ていると、ぐだぐだ考えている自分が馬鹿らしくなってくる。
壊れてしまったら直せばいい。
崩れてしまう前に強くすればいい。
恐れてその場に立ち竦んでいるだけでは、むしろ事態は悪いほうへ進んでいくだけだ。
きっと今にも、どっかの吸血鬼やら、いかがわしいエクソシストが兄さんを狙ってるに違いないのだ。
ぐだぐだしてはいられない。
きっと幸せなんてこんなもの。
人間一人にできることなんてこんなもの。
私が何をしようが、結局のところ、日常や幸せはこんなことで壊れるほど弱くは無いのだろう。
もし、壊れてしまったとしても大丈夫。
そうしたら、一つ、一つ、日常の欠片を集めなおせば良いだけのこと。
弱かったのは私。
『もしかしたら』にしがみついて、先に進むことを勝手に止めていただけのこと。
――ああ、本当にバカみたい…。
くるりと、兄さんに背を向けて、中庭を後にする。
日常は変わらずにはいられないのなら。
幸せはどこにでも転がっているのなら。
私はどこまでも変わってゆける。
私は少しでも兄さんに近づける。
ちょっと行動するだけでなれる理想の私。
ただほんの少し、素直になるだけでもいいのだから。
だから、まずは。
――あの黒猫の名前を、聞いてみようと思う。
<終わっとく>
あとがき
物事を非常に忘れやすい(同時に忘れにくい、矛盾。しかし、これこそが――)霧月です。
キャラの感じとか、忘れるともう一回ゲームをやらねばなりません。
同時に感情移入しやすいタイプかつ影響を受けやすいタイプなので書くたびに文体が変わってしまいます。
だれか、なんとかしてくれ。(無理です)
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