ASUKA〜明日に向かって〜

 

 

「うう…えぐ…、しんじゃ…死んじゃやだ…よぉ」

 女の子のすすり泣きが聞こえて、私は目を開けた。

 ぼんやりと霞んだ視界の中に泣いている女の子が写った。もう見なれている顔なのに、彼女の泣き顔は妙に新鮮だった。

「ほら…いつまでもこんな寒いところにいたら風邪ひくわよ」

 彼女の母親が、女の子に声を掛けた。もうそれも何度目だろうか、それでも彼女はここを離れようとしない。

「やだ…やだもん…。えぐ…ひっく…」

 母親を睨みつけながらの言葉はすぐに嗚咽に変わった。

 泣かないでほしい。また、あの太陽のような笑顔を見せてほしい。

「ほら、行くわよ」 

 母親が彼女を無理やり引っ張った。

「やだ! ここにいさせてよ! お母さんなんて…お母さんなんてだいっきらい!」

 彼女の叫びにも、母親の足は止まらない。それでいいと思う。私なんかのために風邪なんてひいたらいけない。

「ほら…大人しくしなさい!」

 母親は彼女を無理やり家に押しこんで自分も入っていく。と、母親が玄関の扉が閉まる寸前にこちらを見た。その口がわずかに動く。

 何を言っているのかは分からなかったが、その目が私にこう語りかけていた。

『さようなら』

 私もそれに首を振って応える。もうお互い長い付き合いだ。それだけで十分だった。

 ドアが閉まる。そして私は目を閉じた。

(15年…か)

 ずいぶんと長く生きたと思う。死ぬ原因も老衰だと考えると、ほとほと私は幸せ者だと思った。飢えて死んでいった知り合いを知っているのだからなおさらだ。

 かつて自分は飼われていなかった。ただ食べ物を求めて徘徊する毎日。それがいつからだろう、変わってしまったのは。

 私がこの家で飼われはじめたとき、ここには一人の赤ん坊が居た。私が年をとるごとに、彼女は育っていった。彼女には本当によくしてもらっていた。親には内緒で、食べ物をくれた。散歩にも、連れていってもらった。彼女が抱える悩みなども聞かせてもらった。そして…私のために泣いてくれた。

 再び私は目を開けた。そこには冬の夜空が写る。いつもなら小屋にもぐりこんで、寒さに耐えている時間だと言うのに、今はなぜか寒くも何ともなかった。

 もう、分かっている。何だかんだ言って長く付き合っていた自分の体だ。あと数分で私の命は消えてなくなってしまうだろう。ひょっとしたら1分ももたないかもしれない。

 私は目を閉じた。たぶんもう開くことはないだろう。そんな力も残っていない。

 自分が死んだら、彼女は悲しむだろうか、悲しむだろう。それは分かる。彼女はずっと私と共に生きてきたのだ。

 自分が死んでも、彼女はやっていけるだろうか。正直、自身がない。いっそ、彼女には私のことを忘れてほしいとさえ思う。どうやらこのままでは、私は彼女の足を引っ張るだけらしい。でも、そんなのは嫌だ。

 どうか、彼女は、私が死んでも、前を向いて生きていってほしい。決して後を振りかえらずに、それが、これから死に逝く私のたったひとつの願いだった。

「ねぇねぇ。犬さん。大丈夫? なんかぐったりしてるけど」

 突然に声が掛けられた。女性のようだが、少なくとも知らない声だ。開かぬ目では彼女の姿が確認できない。

(放っといてください。どうせ私はすぐに死にますから)

「そう…なんだ。苦しくない? ほら、わたしって死んだことがないから分からないんだ」

 そりゃそうだろう、と思う。

「さっきの娘、泣いてたけど…」

(ええ、私が死ぬから泣いていたんですよ。貴女にはそんな経験はありませんか?」

「う〜ん、どうだろ? ちょっと分からないな」

(そうですか)

「うん、そもそもわたし、大事なひとが居ないから。ひとが死ぬのは何度も見たけど、悲しいって思ったことはないな」

(そうですか…。それは…悲しいですね)

「そうかもしれないね。犬さんにはあるの? そういう経験」

(…ありますよ。死んだのは人じゃなくて、犬ですがね)

「そう…」

(ところで、瀕死の犬に声を掛ける物好きなお嬢さん。名前を教えていただけますか?)

「う…ひとに名前を訊くときはまず自分からって、教わらなかった?」

(あぁ、そうですね。これは失礼。申し遅れましたが、私は厳三(ごんぞう)と言います。ここではゴンと呼ばれています)

「ふぅん。厳三さんね…。わたしはあすか。以後よろしく」

 もう死ぬというのに以後も何もないと思ったが、気にしないでおく。

(あすか…。明日香さんですか。良い名前ですね)

「そう? ありがと。そういえば厳三さんはこれから死ぬんだけど、何か言っておくことはある?何でも聞くけど」

(…そうですね。ではひとつだけお願いしてもよろしいですか)

「うん。内容によるけど」

(ありがとうございます。あの…お嬢さんのことなんですけど…)

「わたし?」

(いえ、私の飼い主のお嬢さんのことです)

「え、ああ」

(明日香さんも見ていたなら知っていると思いますが、先程、彼女は悲しんでいました)

「うん」

(まだ私が死んでないというのにあの調子です。本当に死んだらどれほど悲しむことか…)

「うん」

(彼女はずっと私と共に生きてきました。彼女にとって、私が死ぬのは肉親が死ぬのと等しいのかもしれません)

「うん」

(ひょっとしたら立ち直れないかもしれない。でも、そんなのは嫌だ。死んでからも彼女の足を引っ張るなんてまっぴらです)

「うん」

(だから、そんな彼女を見かけたら、励ましてやってほしい。彼女がまっすぐ歩いていけるように、後を振りかえらなくてもすむように…)

「………」

(はは、ちょっと愚痴っぽくなってしまいましたね。それで、お願いできませんか)

「だめ」

 彼女は即答した。

(何を言ってるのよ。死んでから足を引っ張るのが嫌だ、なんて。それなら引っ張らなければいいじゃないの)

(それが出来ないからお願いしてるんじゃないですか。死者には生者の足を引っ張る以外に何もできない)

「ううん、ちがう。他にもできることがあるよ。まだ、生きているひとにしてあげられることが、たったひとつだけ。それに、それは死者の義務でもある。でも、貴方はその仕事をわたしに押し付けようとした」

(そんなつもりは…)

「そうなの! やらなくちゃいけないことぐらい自分でしなさい! わたしも手伝ってあげるから!」

(できること…義務…)

「分からないの? お別れを言うことよ」

 あっ

(そうですね…抜けていました。それで、明日香さんはその手伝いをしていただけると)

「そう」

(それで、私は何をすればいいんですか?)

「そうねぇ。まぁ、やらなくちゃいけないことは結構たくさんあるけど、まずは…」

(まずは?)

「死になさい」

 

 夜もふけて、その家の大人も寝静まった頃、玄関のドアがゆっくりと開いた。そしてそこからひとりの女の子が出てくる。彼女はそのまま犬小屋まで歩くと、それに声を掛けた。

「ゴン…」

 それは動かない。

「ゴン…ゴン…?」

 彼女はそれに手を触れた。いつも暖かく彼女を迎えてくれたその体は今はただ冷たかった。

「ゴン! ゴンってば!」

 彼女は両手でそれをゆする。そんなことをしても無駄だと心の底では理解しながら、それでも彼女はそれをゆすり続ける。

 当然死体はなにも言わなかった。

 

「行って…きます」

 かろうじてそう言って、玄関の戸を開けた。持ち主が居なくなってしまった犬小屋が目に入る。途端にもう枯れたはずの涙がまた溢れてきた。

 ゴンが死んでからもう五日。お母さんには学校を休んでもいいと言われていたけど、ここに居るとゴンのことを思い出してまた悲しくなってしまう。少しでもここから遠くに居たかった。

 でも、ゴンが死んでからの授業の内容はほとんど覚えていない。学校に行っても悲しくて、結局いつも涙を堪えているうちに授業が終わってしまう。

 学校に着くと、私は鞄から今日使う教科書類を取り出して鞄に入れた。今日は三時間目に漢字のテストがある。少しは勉強しないといけない。

「ゴン…」

 思い出すと、また涙が出てきた。友達に見られないうちに拭う。

 授業が始まっても内容がさっぱり分からなかった。教壇に立っている先生の顔がゴンに見える。また涙が出てきた。早退しようとも思ったけど、結局どこに居ても悲しいだけだからやめた。

 なんとか四時間目まで授業を終えて、机に突っ伏す。平気なふりをしながら過ごすのはとても疲れる。心配なんてされたくなかった。優しい言葉を掛けられたら、きっと私は泣いてしまう。いきなり泣き出すなんてカッコ悪すぎる。

 だんだん眠くなってきた。まぶたを開けようとしても、まるでうまくいかない。

(まぁ、いいか。今日給食当番じゃないし)

 そんなことを思いながら、私は意識を手放した。

 

 目を開ける。となりにゴンが居た。

「え…?」

「こんにちは、お嬢さん。今日はいい天気ですね」

 ゴンはそう言うといつものようにすりよってきた。

「ゴン…?」

「ええ、私です」

 周りを見ると、いつもの教室だった。ただ自分以外にいるはずの人は誰も居なくて、かわりにいないはずのゴンがいた。

「ゴン…ゴンッ!」

 私はゴンを思いっきり抱きしめた。よかった。ゴンは生きてたんだ。

「ゴン…」

「よしよし。思いっきり泣いてください。教室では泣けなかったんでしょ? 全くお嬢さんは意地っ張りだから…」

「ゴン…死んでないんだよ…ね?」

 私がそう言うと、ゴンは少し悲しそうな顔をした。

「いいえ、私は死にました」

「え?」

「私はもう死んでいるんですよ。お嬢さん」

 一瞬目の前がまっくらになった。

「でも…でもゴンはここにいるじゃない!」

「ええ、でも長くは保ちません。今私はとある方の力を借りて、ここに具現化しているだけなんですから」

「何言ってるの? 分からないよ!」

「すみませんお嬢さん。でも、時間がないからこれから私の言うことをしっかり聞いて下さい」

「う、うん」

「私のことを忘れてください」

「! そんなことできるわけないよ!」

「分かっています。でも、あえて言います。忘れてください。それがどうしても無理なのなら、新しい動物を飼って下さい。犬でも、猫でも構いません。きっと彼らが少しずつ時間をかけて私のことを忘れせてくれるはずです」

「そんな…」

「生き物は、後ろばかり振りかえっていても前には進めません。お嬢さんはには、前だけを向いていてほしい。私の言っていることが分かりますか?」

「…うん」

「それに、あなたはひとりじゃない。支えてくれる親がいる。友達がいる。たまには彼らに頼ってもいいですから、どうか、まっすぐ歩いてください」

「…うん」

「…私はそろそろ行きます。お嬢さんも…お元気で…」

 ゴンはそう言って私から離れた。教室の半開きになっているドアを口を使って器用に開ける。

「待って!」

 ゴンは振りかえった。

「私…ゴンのこと…忘れない!」

「お嬢さん…」

「いくらゴンの頼みでも、それだけは聞けないよ! 私は絶対にゴンのこと忘れたりなんかしないから!」

「…お嬢さんは、お強いですね」

 ゴンは優しくそう言った。少し悲しそうな顔で、

「少し余計なお世話でしたか…」

「そんなことない! 私、ゴンに会えて嬉しかったよ」

 ゴンはにっこりと笑った。

「ありがとうございます。それでは、私はこの辺で失礼したいと思います。天国で達者にやっていますから、お嬢さんはどうかご心配なきように」

 諭すように言ってゴンは教室を出ていった。

「ありがとう…」

 私はそう呟いた。きっと想いは届くはず。

「さよなら…厳三」

 

 私は目を覚ました。目の前には給食の乗ったトレイがある。しかもトレイは宙に浮いていたりする。

「あれ…?」

「アレ…? じゃない!」

 すぱこーんと軽い音がして、目の前に火花が散った。

「当番じゃないからって飯を取りに来ないとは、どう言う了見なのかなぁ?」

 トレイを持っていない左手で、首をぎりぎりとしめられる。

「ぐ…ぐ、ぎぶぎぶ。るかっち、勘弁して」

 手を振り払って振り向くと案の定、幼馴染で今日給食当番の近藤留加が居た。

「まったく、元気ないと思って多めに配膳してやったのに、ぐぅぐぅ寝やがって」

「はい、給食ですよ」

 前からトレイが差し出される。前を見ると、トレイを持った、同じく給食当番の近藤留美が居た。

「あ、ありがと」

「さっさと食っちまえって。片づけが遅くなるだろ」

「まぁまぁ、留加。一気に食べると体に毒ですし」

「留美はいつも甘いんだよなぁ。あまり甘やかすとこいつがまともな大人にならないよ」

「あら、そうですか?」

 留美がきょとんとした顔で言った。

「どうでもいいけど、私を挟んで会話しないでよ。給食につばが飛ぶでしょ」

「む…」

「そうですね、すみません」

 留加は不満そうに、留美は素直に自分の席に戻った。

「全く、あの双子姉妹は…」

 悪態を吐きながらも自然に笑みがこぼれる。

「ひとりじゃない…か」

 確かにその通りだと思う。私には支えてくれる親も、友達もいる。

 ふと、窓の外を見上げると、寒空の下、一匹の鳥が飛んでいるのが見えた。

 今日の三時間目の漢字テストで出てきた漢字の読みが頭をよぎる。

 飛鳥―――

 鳥はそのまま辺りを飛び回り、しばらくすると、空の向こうに去っていった。

 また、笑みがこぼれる。あんなに自由奔放と飛びまわっていたら捕まえるのは大変だろうと思う。

「ありがとう」

 そんな言葉が口をついて出た。それは一体誰に向けて言った言葉だっただろう。

 きっと忘れないからね。

 私は視界を教室の中、主に自分の給食の辺りに戻した。

 さぁ、がんばろう。時には振りかえっていてもいいから、まっすぐ進んでいこう。私にはそれができるはずだから。

 差し当たって、いましなければならないのは給食を食べることだ。早くしないと給食当番の人に文句を言われてしまう。

 彼女はそう意気込むと、箸を手に取った。

 

END

 

 

 本当にあとがきか、などと疑ってしまうようなあとがき

 今日の昼食はクッパでした。いじょ!

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