Panic Party  第四十九回  香里の半日

 

 

 

 思えば、この出来事が始まりだったのかも知れない。

 

「あら…?」

 

 香里は自分の下駄箱に手を突っ込んで、声を上げた。

「どうしたの? 香里」

 横にいる名雪が繭を潜めて訊いてきた。

 それは香里自身も訊きたいことでもある。

 

 

 どうして、スリッパが、下駄箱に張り付いて取れないのだろうか。

 

 

「何でもないわ」

 引きつるこめかみと裏返りそうな声を抑え、努めて平静を装う。

 どうしてこんなことになっているかは追々追求するとして、今はとにかくしなければならないことがある。

 まずは一呼吸。落ち着くことは絶対に必要だ。

 そして次に、余計な心配をかけないためにも、まずはこの親友を騙さなければならない。

「名雪。ちょっとあたし用事ができたから、先に行っててくれる?」

 彼女の地の性格を知るものに評価させたら、その擬態の高度さに文句なしの百点をつけるであろう落ち着き振りで彼女はそう言った。

「うん、それじゃあ後でね」

 名雪もそう答えて、教室に向かう。

 その後姿を見送ってから香里は溜息を吐いた。

「バレバレ…か」

 こういうとき、親友というのは逆に不便かも知れない。

「ま、いいか」

 とにかく今はこの事態を解決しなければならない。

 今の彼女にはスリッパがない。どうせ夏休みに入るからといって予備も家に持ち帰ってしまっていた。

 幸い今日は早く家を出たので時間はまだ少しある。でも、家まで往復できる時間は当然ない。

 誰かに借りる…ということも考えたが、みんなも予備は持って帰っているだろう。そもそも日頃から予備を用意している生徒が何人いることやら。

 

 スリッパに手をかける、そして一気に引っ張る。

「んっ…くくぅ………はぁはぁはぁ」

 無理。

 瞬間接着剤かなにかでぴったりと固定されていて絶対に取れない。

 というか、このまま引っ張り続けたら、取れるよりも先にスリッパの底がべりべりとはがれるかもしれない。

「………」

 一応とる手段はないこともないが、それを使うのは控えておこう。

 ようやく夏休みに入ってうきうきな気分で帰ろうとした善良な一般生徒が無残に破壊しつくされた下駄箱を見てパニックに陥るという自体はできれば避けたい。

 なら、どうするべきか。さすがにスリッパ無しで一日を過ごすわけにもいかないし…

 

 しばし考えて思い当たる。たしか、別棟に来客専用のスリッパが置いてあったはずだ。

「遠いわね…」

 ぼやきつつも走り出す。急げば十分に間に合う時間だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はぁ、はぁ、はぁ」

 鍛えているとはいえ、さすがにこの距離を全力疾走はきついものがある。

 あと、不思議そうな顔でこっちを見てくる生徒や先生方は少しいただけない。

 確かに就業時間ぎりぎりに教室とは逆方向に全力疾走する女子高生というのは珍しいかも知れないが。

「えっと…」

 この別棟は主に一部の文科系の部室や、生徒会関係の部屋で構成されている。

 先生方も、特に用事がない限りはここには訪れず、ほとんど生徒だけの聖域といってもいいだろう。

 まぁ、生徒だけの聖域とかたいそうなことを言っても、ここを利用しているのは精々三十人足らずしかいない。

 生徒の中にはここの存在すら知らない者もいるぐらいだ。

 五、六年前に建てられたものだそうだが、まったく金の無駄遣いにも程があると思う。

 そんなこんなで、一年生のとき生徒会の役員をしていたとはいえ、数回しか訪れたことのない香里はおぼろげな記憶を頼りにスリッパを探した。

 かろうじて脳内の景色と目の前の風景を一致させながら歩く。

「あ、あった」

 廊下の端の端にほこりにまみれた気の箱がある。記憶が確かならそこにスリッパが入っているに違いない。

 

 ほこりを払って箱を開ける。確かに入っていてほっとする。

「まったく…」

 場違いはなはだしいと思う。

 こんな、外部の人間はおろか、先生方すら立ち入らないようなところに来客用のスリッパを用意して何の意味があるんだろうか。

 そもそも、ほこりが被っていた時点でまったく利用されていないに決まっていた。

「と、時間っ!」

 あわてて腕時計を見る。何とか間に合いそうな時間だった。

 香里はあわてて踵を返して、

 

「あれ……美坂……か?」

 

 突然かけられた声に振り向いた。

 振り向くと、ひとりの男子生徒がいた。顔見知りだ。

「どうしたんだ、こんなところで。急がないとHRに間に合わないぞ」

 その男子生徒、北川潤は廊下に備え付けてある時計を指差してして言う。

「そういう北川君こそ。もう数分で予鈴鳴るわよ? 急がなくていいの?」

 北川はクセ毛のある頭をぽりぽり掻いて、

「あー、俺今日サボり」

 悪びれずにそう言った。

「……本気?」

 サボる気ならどうして学校に来たんだろうか。

「ああ、本気だ。ちょっとこれから野暮用があってな」

「ふぅん。どうでもいいけど、程々にしときなさいよ」

 どんな用事か訊きたい所だったが、時間が時間なので控えておく。

 サボりに付き合って遅刻なんてそれこそ笑い話にしかならない。

「それじゃあ」

 香里はそう言って再度、踵を返した。

「あ、ちょっと待った」

 呼び止める北川。しぶしぶ香里は振り返る。

「何よ。もう時間がないんだけど」

「ああ、ちょっとな」

 香里は、だから何よ、と聞こうとして―――

 

 

 どくんと、

 

 

 異常な音を立てる自らの鼓動に留められた。

「なっ―――」

 異常な鼓動は一回きり。その後心臓は何事もなかったかのように鼓動を始める。

 まるで、切り替えてはいけないスイッチに触れてしまい、それに気づいてあわてて元に戻したような、そんな歪さ。

 理性を総動員し、自らの脳髄に『気のせいだ』と訴えかける。

 だが、そんなものは無駄にしかなるまい。

 だって、気のせいだとしたら説明が出来ない。

 

 どうして全身から冷や汗が吹き出ているのか。

 どうして世界の全ての色が反転したかのように見えてしまっているのか。

 どうして腕時計の針が逆向きに時を刻んでいるのか。

 そもそも、どうして『気のせいだ』などと自分に言い聞かせているのか。

 

「やっぱり、何でもない。呼び止めて悪かったな」

 その声に我に返った。

 世界は元の色を取り戻し、時計の針も変わらずに時を刻んでいる。

「ほら、急げって。間に合わないぞ」

「え、ええ。そうね」

 腕時計を見たくなくなって廊下の時計を見る。石橋先生の来るタイミングにもよるが、大体あと一分ほどでHRは始まってしまうだろう。

 北川に促されるまま三度踵を返して走り出した。

 目に見える光景にはどこも不審な点はない。いつもの朝だ。

 残ったのは未だ引かぬ全身の汗と、白昼夢でも見たかのような後味の悪さだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今日の日程をつつがなく終えた香里は早々に家に帰る……わけでもなく、校内を駆けずり回って、まだ残っている生徒や先生に聞き込みをしていた。

 そのおかげで大体目星はついた。

 何がというと、今朝のイタズラの犯人がだ。

 主犯はひとり、副犯はふたり。あわせて三人での犯行だった。三人ともクラスメートだ。

 聞き込みでは動機は分からなかったが、どうやら香里がいつもテストで学年一位を取っているのが気に食わなかったらしい。

 幼稚かつ稚拙にも程があるとは思ったが、一番情けないのはこんなやつらのために校内を駆けずり回った自分かも知れない、とそんなことを思いながら香里は図書室に向かっていた。

 もうその犯人は図書室に呼び出してある。愚かにもまだ校内に残っていたらしい。校内放送で呼び出したから間違いないだろう。

 

 果たして、三人は図書室前にくすぶっていた。

 部屋に入らないのは後ろめたい心象の表れかもしれない。

「ごめんなさいね。いきなり呼び出したりして」

 言いながらにっこりと笑ってやる。大抵の人間はこれで震え上がるのだが、鈍感なのか、三人とも笑顔からにじみ出ている悪意に気づかないらしい。

 ただ、そのうちのひとりがかわいそうなくらい震え上がっていた。その顔を脳内の記憶と一致させる。

 たしか、この三人はいつもつるんでいる面々だった。クラスメイトとはいえ、特に話す間柄でもないので名前は全く知らず、ただこういう人も居たな程度の認識しかしていなかった。

 名前も今回の聞き込みで初めて知ったぐらいだ。

 思えばこの泣きそうな女子はいつもこの二人にいびられていたような気がする。

 きっと典型的ないじめられっ子で今回も無理やり付き合わされたクチだろう。

 まぁ、そうは言っても容赦してやる気は微塵もないが。

「一体どういうことなのかしら。美坂香里さん」

 呼び出すときに使った名前とはいえ、もう覚えていないので、左から順に一号、二号、三号と勝手に名前をつけた。

 一号は気の強そうな平静を装っているのが見え見えな態度で言った。それに続く二号。

「全くよ。私たちって結構いそがしいんだけど」

 忙しいならこなければいいのに、などと思いながら三号に目を遣る。

「えっと、あの…」

 何かぼそぼそ言っているが小さすぎて聞き取れない。

 なんというか、この三人のあまりの典型ぶりに笑い出したくなったが、我慢する。

「立ち話も何だから中で話をしようと思ったんだけど、忙しいならここで話しましょうか。まぁ、誰が聞いているかは分からないけど」

 笑いを堪えながら言ってやる。一号と二号の表情が引きつるのが見えた。

「…中で話しましょう」

 苦虫を噛み潰したような顔で言うインドア派の一号。

 二号と三号も特に異存はないようなので、香里は図書室のドアを開けた。

 

「あっ!」

 

 そして、予想外の人物の事態に声を挙げた。

 図書室にまだ人が残っていたのだ。しかも、香里の親友、水瀬名雪が。

「どうしたの、香里。こんな時間に…」

 名雪は意外そうに香里を見た。

 とんだ失態だった。まさか、こんな時間に残っているような数奇者が居るとは思わなかった。

 しかも、名雪ときたもんだ。

 これから繰り広げられるであろう物騒な話はさすがに名雪の前ではできない。

 場所を変えようかと考えて、いや、と否定する。

 校内放送で呼び出しておいていまさら場所を変えようと提案したら、相手は調子付くだろう。

 なら、どうすれば…と。

「あ、ちょっと! 待ちなさいっ!」

 廊下を走る音。一号と二号は駆け出していた。

「え、あ、え?」

 まだ図書室に入っていなかった三号は、走り去っていく一号と二号の背中と香里の顔を交互に見つめて、

「ご、ごめんなさいっ!」

 そう言って二人の後に続いた。

 もはや追う気もしない。

 香里は溜息を吐いて名雪の隣に腰掛けた。

「…どうしたの?」

 心配そうに訊いてくる名雪。

「うん、ちょっとね」

 苦笑して言葉を濁す。

「名雪はどうしたの? こんな時間まで」

 その理由は予想がつくが、話題を変えるために敢えて訊く。

「うん…ちょっと帰り辛くて」

 名雪は今ちょっとした恋の病にかかっている。

 従兄弟の相沢祐一が帰ってきたのが原因らしいが、早く告白すればいいのにと思う。

「ふーん。でも、いつまでもこんなところに居るわけにもいかないでしょ?」

 いつまでもこんなところでくすぶっていては名雪のためにならない。だからなるべくやさしく呼びかけた。

「…そうなんだけど」

「なら、あたしも一緒に行ってあげよか? あたしも久しぶりに相沢くんに会いたいし」

 名雪ははっとした。

「でも、香里…」

「大丈夫よ、あなたが取り乱しそうになったら上手くフォローしてあげるから」

 肩を叩きながら言ってやる。同時に取り乱している名雪の姿を想像してほほえましい気分になった。

 名雪はしばし、うーんと悩み、

「…うん」

 頷いた。

「決まりっと、じゃあ早く行きましょうか。秋子さん心配するわよ。ほらっ」

 まだ煮え切らない感じの名雪を急かした。こういうのは勢いだ。わき目も振らずに告っちゃえば後は野となるし山ともなるだろう。

 名雪は困った顔をしながらしぶしぶ立ち上がり、

 

「…すまんが、帰るのは用事を済ませてからにしてくれないか?」

 

 誰かの声に身を硬くした。

 香里はとっさに振り返り、その声の人物を見止めた。

 北川潤。

 彼は入り口のところに立っていた。

 それを見て、漠然と思う。違う―――と。

 何が違うのか、どうして違うのか、そんなことは分からないが、とにかく『違う』。目の前の人物はいつもの彼ではありえない。

「北川くん…? どう言うこと? あたしは別にあなたに用事はないはずだけど?」

 若干の敵意を用って問いかける。

「ああ、俺の用事だ。ふたりともこれからちょっと付き合ってくれないか?」

 何か様子がおかしい。彼はこんな冷たい目をしていただろうか。

「よく分からないけど、後にしてくれない?」

 思わず一歩後退さる。

「無理だ」

 パチィという、音が聞こえた。

「名雪っ!」

「え…?」

 とっさに名雪を引き寄せて床を転がる。

 頭上を熱を持った何かが通り過ぎた。遅れてヴォンという耳障りな音。

 名雪は突然の事態に目を白黒させている。

「動かないで」

 短くそう告げて、机の隙間から北川の姿を見て取った。

 

 こうもわけの分からないことが起きているのに頭は妙にクリアで、早く立ち上がれと急かしてくる。

 たぶん、最初から分かっていたのだ。こんなことになるんじゃないかって。

 そのために部員がふたりだけの部活で毎日鍛錬してきたのだ。

 おかげで突発的な体躯にも耐えられるし『奇跡』の行使もかなり慣れた。

 まるで何かに急かされるようにふたりで訓練していたが、その何かの正体がここにきてようやく判明した。

 それは『必要性』だ。未来にこの身を用いた戦闘があるのならば、それに生き残るために鍛錬が必要になる。

 美坂香里は二十四時間、年中無休で臨戦態勢。

 この身はすでに戦闘に耐えられるだけの強さを有している。故に敗北はありえない。

 

 香里は頭を振って身を起こした。

 そして、迫り来る北川を視認すると、腕を軽く振った。

 

 唐突で理不尽で意味不明な、それが戦闘の開始だった。

 

 

 

  


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