その変化は本当に一瞬で、唐突だった。
 空気が変わった。
 貫井浩司の周囲、目に見える範囲。月明かりのみの通常が異常へ切り替わる。
「な」
 んだ、という呟きは手から落ちたビニール袋とその中身が零れる音で掻き消えた。
 違和感が尋常ではない。見た目普段と変わらない、誰も通らない道が、まったくの別物のように感じる。
 じわり、と握った手が汗ばんできた。嫌な予感をひしひしと感じる。だが、音はない。

 ただ―――視えた。

「おい、マジかよ」
 宙に浮遊する、龍のあぎとを髣髴とさせるクロい影。大きさは人の丈ほど。
 対する浩司は呆然と立ち尽くすしかなかった。
 今までにもいろいろなものを視てきたが、こんなものは初めてだった。現実から乖離しすぎている。
 クロい影はゆっくりと浩司へと向き直った。まわりに他に何もなかったから標的を浩司に定めたのだろう。ばかん、と口が開く。その奥は深い深い、闇。
「………」
 浩司は何も言わず、ただ麻痺したかのように立ち尽くしていた。
 こんな非現実の中で一体何ができるというのか。
 できたことはせいぜい後ずさる程度だった。だが、一歩下がる間に、クロい影は目前まで迫っていた。空中を滑るように、一直線に。
「あ……」
 パニックさえ起こせない。もし錯乱できたなら、それはどこまでも幸運だっただろう。
 だが浩司は錯乱することも、恐怖することもできなかった。理解の範疇を超えた出来事は全ての思考を遮断する。
 そんな遮断され、思考できない浩司の目の前で、深い闇の穴が。
 
 
 ――風切り音は真横から。
 その風切り音の切っ先が、クロい影を横から貫いた。
 影が人間には理解できない叫びを上げる。浩司は咄嗟に耳を塞ぎ、それと同時に見た。
 何者かが、暗闇から躍り出る瞬間を。
 黒く、長い髪をなびかせて地を蹴る。手には光を弾く、するどいエッジ。
 何者かは物怖じすることも躊躇することもなく、そのエッジをのた打ち回る影に突き立てた。
 影には実体もないのか、突き立てた腕ごと中に入り込む。だが意にも返さない。逆に、壮絶な笑みを浮かべた。
 声が響く。その声は透き通るような――ヤイバのような鋭さをもった呟き。

「弾けろ」

 事はあっけなく、そして、一瞬だった。
 言葉通り、クロい影は内側から弾け飛んだ。そして跡形もなく消失する。
(なんだ?)
 浩司の頭の中を混乱が跋扈する。
 ワケのワカラナイ影と、ワケのワカラナイ誰か。
(一体、何なんだ……!?)
 目の前の人物を浩司は今になってハッキリと見た。
 少女、らしい。とは言っても、年は同じか、ひとつ下くらいだろう。腰に届きそうなほどに長い黒髪と、自信に溢れた瞳が印象的だった。
「これで終わり、かな」
 凛とした声だった。
 右手のナイフをぶん、と嫌なものを払うかのように振り抜く。
 白銀のエッジは、月明かりを受けて白々と瞬いていた。凍えるほどに寒々としている光は、それでもこの場では救いに見える。
「―――、ぁ」
 声が洩れた。
 身体が今まで忘れていた呼吸を思い出して再開したかのような錯覚。
 それほどまでに先の状況は異質だったのだ、と改めて浩司は認識した。
 と、同時に今は異質な空気がなくなっていることに気付く。
「平気?」
 ふと声を掛けられた。
 浩司は弾かれたように顔を上げた。視線の先には、ナイフを仕舞っている少女の姿がある。
 それは本当に少女だった。
 どこにでもいそうな、普通の少女。あの勇姿さえ見なければ、浩司はこの少女のことをただの少女としか見なかっただろう。
「あちゃ、完全に呆けてる」
「ぁ、んた、今の……なんだ」
 搾り出すかのような、か細い声。浩司には今の現実は非現実との境界にある。あと一押し。何かがあればそれは現実か非現実かに確立される。
 そしてこの少女はその一押しを間違いなくできるのだと、確信に近く感じていた。
「――まさか、視える、、、の?」
 驚きを孕んだ声だった。
 信じられない、といった言葉を続ける少女は数瞬の間、逡巡する素振りを見せた。
「……正直、聞かない方がいいと思うよ。知らぬが仏、って言うじゃない? それに」
「それ、に?」
「……非現実が、現実になるから」
 その言葉はとどめだった。
 浩司の中で何かが音を立てた。はっきりと認識したわけじゃない。説明を受けたわけでもない。
 それでも。
 今間違いなく、浩司の中で現実にヒビが入った。
「もう遅い。その言葉はとどめだ。……教えてくれ。今のは、なんだったんだ?」
「言わない。仮にあなたが視えていたのだとしても、聞かないほうが絶対にいい。聞いたって何の得もない。ただあるのは非現実の肯定だけ」
 少女の表情はどこか虚無を思わせた。
 聞かないほうがいい、という一点だけを主張する。恐らく、それは浩司のことを案じての言葉だろう。
 だがもしそうだとしても、浩司にとってみればどうでもいいことだ。
 このまま何も知らず、何もなかったことにして、また元の生活に戻る。確かにそれは理想であり、当然の考えだろう。
 しかしそれは非現実の否定、ついてはこの少女の否定に他ならない。
 浩司がそこまで考えているかと言えば定かではないが、漠然と、このまま少女の言葉に従うべきではないと思っていた。
「なら、ひとつだけ聞かせてくれ」
 一呼吸の間を置く。少女も拒否はしない。
「あんた、いったい何者だ?」
 その言葉に、少女は凛とした声で答えた。

「附霊師」

 躊躇なく、ただ一言。それだけを言って身を翻す。
 空には半分の月。十月も半ばの夜。月光を弾く長い黒髪が、鮮明に浩司の記憶に残った。


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