浩司が感じ取ったのはどこまでも不快な違和感。
 現実が現実と認識できなくなり、非現実は現実と溶け合った。
 在るのは非現実を肯定した現実。異質はこの瞬間、正常と成る。
「……凪!」
 浩司が声を上げるのと、影が現れるのとはほぼ同時。
 声と、その意味を一瞬で汲み取った凪の判断は早かった。
「下がって!」
 叫ぶと同時に、自らも横に跳ねた。
 直線で突っ込んできた影は彼女の元いた場所を貫き、そのまま森の中へと姿を隠した。
「まさか、こんな早い時間から出てくるなんてね」
 呟き、凪は思考を切り替えた。まるでスイッチを入れるかのように、カチリと切り替わる。

 ―――思考は悉くを附霊の者に。

 そして彼女は懐からひと振りのナイフと、小さなコインを取り出した。
 六芒星の刻み込まれた小さな銀色のコインを左手に。
 刃渡り六寸ほどの銀色のヤイバを右手に。
 彼女は――附霊師は指先に挟んだコインにヤイバを重ね、悠然と告げる。
 
憑依ポゼッション

 瞬間、ナイフが振り抜かれた。
 それだけで、穏便ながら劇的な変化は発生した。
 コインに走る裂傷。まるで六芒星を通り断ち切るかのような一閃は籠目を壊した。籠目は六本の直線により描かれる封じの印、すなわち六芒星である。
 封は解かれ、唄にある籠の中の鳥は開放された。
 中心で舞う凪の周囲に風はない。
 名の示す通りに風が亡くなったかのようだ、と浩司は思った。

 ヒュ、と空気を裂くヤイバの軌跡は鳥を捉える。
 鳥は、否、ひとつの霊はそのままナイフに溶け入るかのように、刹那に吸い込まれた。
「さて」
 くるりと一回転。尾を引くように流れる黒髪は闇に染まりつつある中、それでも鮮明に映った。
 右手には鋭いエッジ。左手のコインは役目を終え、懐へと仕舞われた。
「……っ!」
 回転の終端と同時に起きる鋭い踏み切り。停止から最高速までは一瞬。駆ける凪は狩猟者を思わせる。低い姿勢で境内の端――林へと突入する寸前でナイフを持つ腕を引き絞った。
 突き出される刺突は解き放たれた矢に酷似している。
 その矢の向かう標的は林から飛び出そうとした瞬間だった。凪は始めからこのタイミングを狙っていたのだ。躊躇なく放たれた一閃がそれを物語っている。
 だが闇において軌跡が残るほどの一閃は、それでも当たりはしない。
 凪には灰色に、浩司にはクロく映る悪霊らしきものが寸前で身を横にずらしたからだ。
「チ……!」
 舌打ちして凪は突き出したナイフを構えなおす。さらに一閃を加えんとナイフを振ろうとした瞬間には、標的はすでに矛先を変えるように移動していた。
「浩司!」
「……え?」
 凪の声を聞いたときには、浩司の目の前に深い闇が広がっていた。それが自身を飲み込もうとしていると漠然と考える。焦りや恐怖の前に来た冷徹な事実に浩司は戦慄し、故に反応は恐怖を覚えるよりも早かった。
 咄嗟に顔を背ける。半ば屈むようになったが、それは結果としては正しかったと言える。
 なぜならば屈んだことで浩司に触れるはずだった闇は触れることなく、そのまま奥へと過ぎ去ったのだから。
「邪魔――!」
「うわっ」
 その上を少女の小柄な体が跳び越した。途中にあった賽銭箱を踏み台にして跳躍したらしい。
 飛び上がった凪はナイフを大きく横に振りかぶった。
 視線の先には背を向け逃げの一手を選んだ悪霊の姿がある。
「逃がすわけ」
 ない、と小さく告げられた言葉と、放たれた軌跡は、予告と結果を意味していた。
 闇を裂き直進するナイフは、吸い込まれるように悪霊の背を割るように突き刺さり、勢いを落とすことなく腹から貫通した。
 びくんと悪霊が震えるのと、凪が浩司と初めて会ったときと同じ言葉をつぶやくのが同時。

「弾けろ」

 闇に溶けるように、などということはない。
 圧倒的な圧力を内側から加えられたかのように、風船が割れるかのように、悪霊は弾け飛んだ。
 消失する悪霊の姿と比例して、違和感も薄らいでいくのを浩司は感じていたが、凪は警戒の色を緩めず辺りを注意深く見回していた。
「終わったのか?」
 すでに落ち着きを取り戻していた空気に、浩司も同じく落ち着きを取り戻していた。
 声を掛けられた凪もため息を吐くと、そうみたい、と肯定の言葉を返した。
 ゆっくりと地面に突き刺さったナイフを抜きながら、凪は真剣な声色で訊く。
「こんな目にあって、それでも関わろうと思うの?」
 こんな目に――その意味を浩司は深く、思案した。
 今、目の前で起きた出来事に自分は何ができた。何を、することができた。
 何も、だ。
 凪に言われた通り後ろに下がり、そして狙われ、また邪魔にもなった。
 何も、できなかった。
 自分は無力だ。ただ霊が視えるということだけを共通の力と錯覚しただけだ。
 力なんてものは何ひとつありはしない。
「それでも」
「放ってはおけない?」
 凪の先を読んだような言葉。浩司は首肯を返し、先を促す。
「……何言っても無駄っぽいね。まぁいいわ。話を聞いてからでも遅くないだろうし」
 そう言って、彼女は事の次第を語った。


「まず、附霊師のこと。それはそうと退魔師って知ってる?」
「まぁな。読んで字の如く、魔を退治する人のことだよな」
 そう、と凪は頷き、説明を続ける。
「附霊師ってのも読んで字の如しよ。霊を附加するの。分かる? 霊を払うんじゃなくて、霊を憑けるっていう意味」
「よく分からないけど……イメージだけで言うなら、いい印象は受けない」
「それは仕方ないと思うけど、多分、全然想像と違うと思うよ」
 浩司は疑問を浮かべ、凪は軽く笑って説明を加えた。
「霊ってのは、本来触れることはできないの。視えもしないんだから当然よね。退魔師はだから霊的な力を持つ言霊や道具を用いるんだけど……これって、完全に霊を消しちゃうのよ」
「そりゃ元々そういう目的なんだろ? ならいいじゃないか」
「確かにそうなんだけど……。まぁいいわ。とにかく附霊師の説明。霊に触れられないのは霊的な力を持っていないから、というのはいいよね?」
 凪の問いに浩司は首肯で答える。
「ならばどんなものでも霊的な力を加えれば触れることができるようになる、っていうのが附霊師の考え方。霊に触れるための霊的な力を、同じ霊に求めた。つまり」
「物質に霊を憑け、その物質に霊的な力を与える……ってことか?」
 その通り、と凪は真剣な表情で頷いた。
 霊に触れるには同じ霊を用いればいい。その考えは異端ながらに画期的であった。
 これならば霊的な力の強さのみで捻じ伏せてきた退魔師よりも、付与する物質の性質を利用することで効率よく力を得ることができる。
 凪の場合はナイフにこれを行った。
 霊はただの動物霊。霊の中でも下位に値する動物霊でさえ、霊に触れられるという効果を持たせるには十分である。
 そして持たせたものはナイフ。刃物など霊には意味がないが、それは霊的な力がない、ただの刃物ならの話だ。
 もしその刃物に霊的な何かがあるのなら、その瞬間立派な凶器へと成り得る。斬ることも、刺すことも、刃物というものが持つ理念はすべて通用することになるのだ。
「つまり附霊師は霊を以って霊を制する人、ってことよ」
 附霊師が行うことはそれだけには留まらない。
 霊を附加することに特化したのならば、特定の物に霊を閉じ込めることに特化したとも言える。
 俗に封印と呼ばれるものだが、附霊師はこれを封じ込めることに特化した物質を併用することで簡単に行っているのだ。
 凪が持っていたコインもそれに値するだろう。
 六芒星――つまりは籠目の模様は捉えることに特化した概念を持つ。カゴメ唄にある籠の中の鳥というのが封印により封じられた霊を指すということだ。
 
「附霊師のことは分かった。なら、もうひとつ。さっきのは何だ?」
「正直に言って、分からない。ただ、あいつに襲われた人は中身がなくなってた」
「中身?」
「中身よ。精神、魂、言い方は何でもいいわ。とにかくその人がその人たる中枢が、喰われた」
 その淡々とした凪の言い振り浩司は戦慄した。
 魂が喰われるということの意味を、霊が視える浩司は理解している。

 それは生きているのに、生きていない。

 魂の抜けた人間は総じて植物状態となる。
 人間の意識を確立させる中枢、魂がないのだから当然だ。生きているのに生きていないとはつまりそういうことである。
「こんなこと……あり得るのかよ」
「あり得る、あり得ないじゃないの。実際起きてるんだから」
 そう、実際に起きている。
 現実であり空想ではない。
 普通の人が聞いたら笑ってしまいそうなほどに現実離れした話は、今ここでは重い現実として存在している。
「でもなんで、こんなことが」
「それが分かったら苦労しないよ。分からないから、毎日事前に食い止めようと街を歩き回ってるんだし」
 対処法は基本的に存在しない。
 尤も、霊が視えない普通の人には襲われたという事実にすら気付くことはないだろうが。
 
「もういい? 他に話すことは多分ないと思うけど」
 凪の言葉に、浩司はうな垂れたまま呟くように、あぁ、と答えた。
「これで分かったでしょ? 結局、どうしようもないのよ。私にも何も分からない。浩司には力がない」
 だから。
「浩司はもう止めたほうがいいよ。私に任せてくれればいいから」
 そう一方的に告げると、浩司が反論の言葉を喉から搾り出すより前に、凪は夜の帳の降りてきた街へと身を翻していた。


 戻る | 進む 
 クリックだけでも嬉しいので、気軽に押してやってください。完全匿名です。メールや掲示板に書き込むより断然お手軽。
> Back to List
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送