人間の記憶とは深く広い海に酷似している。
 記憶とは海を泳ぐ魚だ。
 海を回遊魚のように回っている記憶は、捕食する側とされる側とに二分される。
 小魚のような記憶は、大きな記憶に咀嚼され、消えていく。
 大きな記憶も次第に力を失い、やはり咀嚼されて終えるのだろう。
 それが忘却の連鎖。誰もが続ける、記憶という名の海。
 
 そんな海の底。連鎖から解放された魚影がある。
 
 深海魚、とでも言えばいいのだろうか。
 他に依存することを止めた、ひとつの存在のまま静かに終わりを待つ記憶。
 忘れない記憶というものは総じて深海に在る。
 いくつもの魚影は動かずたゆたうだけだ。
 自分から動き回ることを放棄し、ただ揺られているだけの姿は海草を思わせる。
 根付いたかのように動かない記憶は、基本的に任意に浮き上がらせることができない。
 ただ例外があるとすれば、それは無意識下という状態だ。
 任意ではない行動は例外を容易く起こす。
 ふと前触れもなく思い出す記憶。
 いつかの映像を見てしまう夢。
 両者共に任意でも故意でもなく偶然。そして、必然とも言える。
 記憶はそれでも呼び起こされるべくして浮かび上がるものだ。
 如何に意識しなかったとは言え、どこかで望まなければ記憶される筈もない。
 だから、そう。
 今呼び起こされる深海魚は、必然として此処に在る。
 


 子供が泣いている。
 顔をくしゃくしゃにして、広場とも言えないくらいに狭い空き地で、ただひとり泣いている。
 広がっているのは昏い闇。
 夜が降りてきた空き地を照らし出すのは、真円を描く蒼い月。
 淡い蒼い光は別け隔てなく世界を包み、空き地の中心にいる子供の周りをも照らし出していた。
 その光の中、泣き声と真っ赤な液体だけが広がっていく。
 真っ赤な液体は子供の右肩と、右足から流れていた。
 尋常な量ではない。パックリと割れた傷痕から流れ出る血の量は簡単に失血死させるほどのものだ。
 だが、子供は延々と泣いているだけ。
 血の気がなくなっていく素振りさえ見せない。
「いた……い……」
 か細い悲鳴。泣くことで潰れた喉はそれだけで激痛をもたらす。
 喉を指す激痛にか細い悲鳴を上げ、喉はまた痛みを発する。
 そんな悪循環。
 驚いたことに、子供は傷の痛みではなく、喉の痛みで泣いていた。
 いや、最初から傷は痛んでいなかったのだ。
 流れ出る血も、ただの赤い液体としか認識できないほどに現実味を帯びない。
「いたい……いたい、よぉ……」
 泣き声は続く。
 終わらない連鎖の中、その子供は自分を抱きしめるように蹲った。

 まるで――自分の中の「何か」を抑え付けるかのように。

 びくん、と震える。
 内側が暴れまわっているかのような衝撃に、子供は涙を流した。
 嗚咽は既に言葉にもならない。
 中のモノを必死に流しだそうとする血でさえ意味はなく、逆に取り入る隙を与えただけだ。
 躰の中で何かが混じり合う。
 半分を喰らって半分を支配する。
 溶け合い混じり合いひとつになる。
 そして……最後には血までもが止まった。
「あ……」
 漠然と理解する。
 自分は、もう自分自身だけで存在しているのではないということを。
 目に視えない何かが自分の中に住んでいる。
 カラカラ笑っている。
 その音はしばらくして止んだ。違和感も、共に止んだ。

 空には真円の月。
 夜空という真っ黒の画用紙を切り抜いた穴。
 穴から降り注ぐ蒼い光。
 静かな、風の亡い夜。
 月が照らす、憑夜。


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