第51話   凶 月 − マ ガ ツ キ −

 

 

 

 紅い空間は変わることなく、今もただ、紅い。

 

 張り付けにされ、見ているだけしか出来なかった祐一の視界に映っているのは深紅の空間。

 そして―――――

 

「が、ぁ…ああ…ッ!」

 地面に両手をつき、苦しそうに声を漏らしている紅の存在。

 貼り付けにされている祐一の姿などまるで忘れているかのように、ただ苦痛に顔を歪めている。

 

「…あいつ」

 呟いて、今まで見ていた光景を思い描く。

 それは鮮明に、狂い無く再生される。

 事は一瞬、されど映像は数分の。

 刹那の間に浮かんだ記憶は、たった今まで見てきた、悪魔の姿―――――

 

 

 

 

 

 

 

 

「ぁぁぁああああああああぁああああああぁぁああああああッ!!!」

 絶叫とともに【黒ノ風】を放ち、自らも駆ける。

 目の前には大剣―――バイスを構えた悪魔、ヴェルフェゴール。

 担ぐようにして構えていた大剣を、黒ノ風が到達する僅か前に振り抜く。

 ゴゥと空気を巻き込んで引き裂かれた大気は、空間をも掌握し、そして削り取る!

 

 空間が軋む、音。

 

 それを聞きながらも、なお堕天使と成った祐一は加速した。

 削り取られた空間を抜ける。それはワープの如き瞬間の移動。

 抜けた先にいるはずの悪魔に向けて、風を解き放つ。

 

 だがしかし。

 

 それは悪魔にも予想できていたこと。

 いや、むしろそう仕向けたと言ってもいい。

 無の空間を抜ける、その出口など最初から分かりきっている。タイミングさえ間違えなければ隙だらけなのは向こうだ。

 

「ッ!?」

 いきなり目の前に迫っていた大剣を、避けきれないと判断して【黒ノ風】を全てガードに回すことで受け止める。

 ぎち、と腕が軋んだ。

 【黒ノ風】に込められているエネルギー量は膨大だ。全力とはいかなくても、普通の能力者を凌駕するエネルギーであることに変わりはない。

 だが、すべてを消滅させる【黒ノ風】を以てしても…大剣を消し去ることも、削ることさえも出来ない!

 なんて馬鹿げたエネルギー。

 あの大剣だけで、既に【黒ノ風】のエネルギー量を凌駕するというのか。

 ぎちぎち、と。

 軋む腕に鋭く痛みが突き刺さる。

 だがその腕を弾かれるわけにはいかない。その瞬間に飛ぶのは首だ。

 全力で、必ずこの大剣を止めなければならない…!

 

「―――所詮、お前はそれが限界だ」

 ギシ、と。腕の軋みが最高潮に達しようとしている。

 エネルギーも切れかけ、完全解放したとしても、恐らくは及ぶまい。

「ぐ、ぅ…っ」

 更なる圧力が全身を襲う。殺気はそのまま重圧となって全身を縛り、圧倒的剣気は今にも身を裂かんとするほどに苛烈。

 さらに圧力が増す。

 少し、ほんの少しでも気を抜けばその瞬間に真っ二つ。エネルギーの均衡は崩れかけているのか、段々と刃がエネルギーの壁を食い破っていくのが分かる。

 もはや完全解放しようにもエネルギーの残量が無いに等しいのだから適わない。

 バケツの中から、バケツの許容量以上の水を流すことが出来ないように、エネルギーにも上限というものが存在する。

 

 復讐なんて、まだ夢のまた夢だと言うのか。

 アイツを殺したヤツが、目の前にいるっていうのに。

 俺は…届かない。

 

「あ…ぐ…!」

 限界が近い。

 既に視界は霞が掛かり、全身の感覚がオカシイ。

 軋む腕は感覚など疾うに失っている。視界が捉える、腕がまだ受け止めている、という事実でしか判断が出来ない。

「これで最後だ――――」

 耳に届いた声は、死刑執行人のような冷たい響きを伴っていた。

 

 だが。

 

「っ!?」

 悪魔の表情が驚愕に染まる。

 大剣を握る腕が、上がらない…!

 その事象からひとつの事実を導き出す。

 

「―――殺させは、しないわ」

 全身を襲う過度の疲労感に四肢を床につけた状態で、瞳だけは全てを射抜く矢のように。

 悲哀の片翼―――重力を掌握し、今、悪魔の腕を縛りつける。

「…っ」

 だが、それが最後の力。

 完全にエネルギーを使い果たし、意識が沈む。

 それでも構いはしなかった。祐一を助ける、それだけしか望みはなかったのだから。

 

「ぁあ―――――ッ!!」

 そして、悪魔の動きが止まった瞬間に、祐一は一気に踏み込んでいた。

 悪魔が反応しきるよりも尚速い。今までで見せた中での最高の踏み込み、速度。

 全エネルギーを加速に用い、その加速によって得た破壊力を…全力で顔面に叩き込む!

 

 そしてそれと同時に――――

 

 

 ――――祐一の意識は完全に闇へと…堕ちた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「―――派手に、やられたな」

 十字架に張り付けにされたまま、堕天使を見下ろすようにして話しかける。

「悪魔ヴェルフェゴール、か。無茶苦茶なヤツだな」

「く、くく…っ。確かに、アイツは無茶苦茶なヤツだ。【黒ノ風】も通じないような、化け物だ」

 

「化け物が化け物って言うのか…。そりゃ大したものだな」

 はは、と軽く笑う。

「……何が、可笑しい?」

「何が? あれだけのコト言っておきながら、結局負けて、更に見逃してもらったってのに?」

 身体の支配権を奪われていた祐一には、堕天使が気を失っても意識を保ち続けていた。

 だから時間的感覚もそのままで、既に数十分と時間が経過していることも知っている。

 だというのに自分の身体に何も異常が起きていないのだから…見逃されたに違いない。

 

「貴様…ッ」

「それにお前が戦っている理由は復讐? ……情けないな」

「なん、だと…!?」

 十字架を背に、軽く笑みを浮かべて祐一が言う。

「復讐なんて、過去へ縛られているだけだ。前へ進めない。お前みたいなヤツが結局はそうなんてな。復讐が終わったらどうするんだ? どうもできないだろ?」

「―――やめろ」

「お前には“先”がない。過去だけしかないお前に、未来ってのはないんだ」

「―――やめろ……!」

 堕天使の顔がだんだんと怒りに染まっていく。

 分かっている。先がないことくらい分かっている。分かっている、はずなのに…ッ

 

 ゴゥ!

 

 堕天使が【黒ノ風】を十字架へ磔にされている祐一へ放った!

 すべてを消し去る、必殺の奔流。

 自らに迫った生命の危機を前にして―――――

 祐一は初めて表情に怒りの色を宿した。

 

 

 

「――― ふ ざ け ん な よ」

 

 

 

 ドン、と空気が震撼し、その刹那の後【黒ノ風】が消滅する!

「なに!?」

 堕天使が驚愕にたたらを踏んだ。

 まさか止められるとは思っていなかったのだ。

 

「大切な人を失う悲しみを知っているのに、簡単に相手を殺そうとする……。

 その相手にも大切な人がいるだろうに、そいつが死んだらお前みたいのが増えるだけだろう―――ッ!」

 

「だからどうした!? 俺はヤツを殺すと誓ったッ。貴様にとやかく言われる覚えはないッ!!」

 瞬間的加速。まるで足裏で爆発が生じたかのような踏み込み。

 紅の閃光と化した堕天使が祐一へ迫る!

 

「―――ふざけんな…ッ!」

 

 バキャァンッ、と派手な音を立てて背の十字架が砕け散る。

 だがそんなことは構わず、突っ込んでくる紅の存在。

 

 それを前にして、祐一は力を呼び覚ます。

 

 

「教えてやる。―――――お前では先に進めないってことをなッ!!」

 

 

 

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