「……あり得ない」
 そんなことを、開口一番に氷は言った。
 朝。浩司がシャワーを浴びてから悠々と朝食を取っていたときのことだ。浩司と家が隣通しで幼馴染でもある麻生氷はいつも通り、彼を起こしにやってきた。
 普段浩司は寝ている。それはもう、これでもかと言うほどの熟睡がほとんどだ。
 彼の母親は朝早くから仕事に出掛けてしまうために寝ぼすけを起こすことがない。
 つまり誰も浩司を起こさなければ、そのまま遅刻――ないし欠席してしまうのだ。
 そんなことを世話焼きで有名な氷が許すはずがない。
 毎日、浩司が遅刻も欠席もなしに学校に通えているのは氷がいるためだということは、誰もが知っている事実である。
 例に違わず今日も今日とて浩司を起こしに来た氷は、目の前の信じられない事実に、つい言葉を漏らしたのだ。

「あり得ない、ってのはご挨拶だな」
 浩司は軽く氷を一瞥してから言った。手にはトースト。もふもふと食べるその姿はどこかリスに似ている。
「いや、だって……ねぇ?」
「ねぇ? って言われてもな。そんなに俺が起きてるのは意外か?」
 うん、とばかり氷は頷いた。つられるように、後ろでポニーテールにされた髪が揺れる。
「あんたが起きてるなんて……まるで天変地異の前触れみたいじゃない」
「ひでぇ」
 とは言うものの、浩司も実はそんな気がして仕方ないでいたのだが。
 朝早く起きたことは、自分自身でも信じられないほどに奇跡に近いらしい。
「でもホントに、どうして起きてるの?」
「さぁ、な。起きたものは起きた。それだけだろ?」
「それだけだろ……って。まぁ、いいけど」
 納得したようではないが、氷は引き下がった。
 確かに人が目を覚ますのに理由はいらない。偶々早く起きたということもあり得るだろう。
 朝が弱い浩司なのだから本当に偶々ということなのかもしれない。
 氷は強引に自分を納得させた。事実起きているのだから何の問題もない。手間も省けて嬉しいというのが本音でもある。
「今日は落ち着いて登校できそうだしね」
「……すっごく嫌味だよな、それ」
 当たり前じゃない、と氷は楽しそうに笑った。

 浩司と氷が通う高校は、徒歩で三十分という距離にある。
 駅と学校は近く、十分もあれば到着できるだろう。
 そんなこともあってなかなか人気の高校でもある。レベルだけで言うならそれほど高いわけでもないが、決して低いわけでもない。
 よくある、普通の高校というものだった。
 その高校へと向かう三十分の道を、浩司と氷は並んで歩いていた。
「あり得ない」
 呟きは浩司の口から。
 氷が起こしに来て最初に言った言葉とまったく同じ。驚きを内包した呟きは冗談だとは感じさせない。
「……今になって、何言ってるのよ」
 浩司に対する氷の言葉は完全に呆れだった。
 浩司の驚きの内容は、朝に落ち着いて登校できているという事実に対してのものだ。
 先の氷の言葉に嫌味だと気付けてはいたのに、現実としての実感を得てはいなかったのだろう。
 実際に登校の道を歩いて始めて、日常との差を感じたのだ。
「なぁ、ホントに……走らなくても大丈夫なのか?」
「大丈夫だって。時計、見る?」
 ほら、と氷が腕を差し出した。手首の小さな時計が、規則的に現在の時刻を示していた。
 チクタクと動く時計は現実だけを突きつける。今の時刻は確かに、普段よりもかなり早かった。
「うわ、この時計壊れてるんじゃないか? 俺がこんな時間に歩いて登校してるなんて」
「……なんか釈然としないものがあるけど。時計は壊れてない。つまり遅刻しそうでもない。わかった?」
 そんな氷の言葉に了解、と返そうとして、
「よ、おふたりさん」
 後ろから掛かった声に呑み込んだ。
 声は聞き覚えのあるものだった。こんなところで聞くことになるとは思ってもいなかったが、偶にはあり得ることだろう。
「藤間か」
 振り返りながら浩司は相手をいつも通りに呼んだ。
「おはよう、拓矢」
 氷も同じように振り向きながら挨拶の言葉を投げた。
「おはよう浅生。なんだ、今日は早いな」
 天変地異の前触れか、などと屈託もなく笑う。
 藤間拓矢。浩司と氷の共通の友人であり、仲は中学時代から続いている。
 現在は浩司と同じクラス。氷はクラスは違うのだが、放課後に会ったりすることは多い。
 いかにも遊び人といった雰囲気を纏っている拓矢だが、学校内で浮ついた噂を聞いたことは不思議となかった。
 弓道部に所属する彼の腕は大会で上位に残るほどのものでもあり、名前だけなら学校内で知らない人のほうが少ないだろう。
「今日はどうしたんだ? お前らがこんな時間にいるなんて。……いや、むしろ俺がヤバイ?」
「安心しろ。俺も日常とのギャップに苦しんでる」
「あんたら……」
 ふたりの会話に氷が割り込んだ。心なしか怒気を孕んでいないでもない。
「……本当に遅刻したいなら、いつまでもそこでそうしてなさい」
 その言葉で浩司と拓矢の態度は一変した。キビキビと歩き出したその姿は統率された軍を髣髴とさせる。この場合氷が指揮者で、浩司と拓矢は使い捨てもいいところの部下だ。
 ――学校までおよそ十五分。
 その道のりを、ただ機械的に歩いた。

 学校というものは当然教育の場であり、知識だけでなく常識をも身に付けるためには避けては通れない必然のものである。一般的な学校というものの概念はそのようなものだ。
 しかし当事者から見れば大人のエゴを突きつけられるだけの嫌な場所、というイメージの方が強い。
 そんな学校にわざわざ通うのは数多くの友人がいるからということと、何より世間の目があるからだろう。
 人というものは世間から弾かれるのを極端に嫌い、恐怖する。人はひとりだけでは生きられないというが、それを無意識に感じ取っているのかもしれない。
 もし学校が好きだという人がいるのなら、きっとどこかがずれている。勉強が好きなどというものは理由にはならない。勉強が好きならば家で独学でやってもいいのだ。
 自己が薄いとでも言うのか。他人からの押し付けを重圧だと感じられないのは、それが当然だと自己を封印しているからなのかもしれない。
 浩司は当然だが……学校が嫌いだった。
 理由はいろいろある。勉強が苦手、嫌な奴がいる、担任がムカつく。言い切れないほどの要素が絡みあって、学校は好きになれない。周りも同じようなものだ。取り分け、担任が嫌いという同志は多かった。
「あー……」
 気の抜けたような声を浩司は上げた。
 朝のSHRも終わり、一時間目の授業が始まるのを待つ短い時間。この時間は気分を入れ替えるのにどうしても必要だった。
「なんだ、貫井。相変わらず朝から辛気臭いな」
 ふと、後ろから掛かった声に振り向いた。
「まぁ、あれだけ嫌味っぽく言われたら仕方ないかもしれないけどな」
「ホントにな。……あー」
 ウザイ、という言葉をぎりぎりで呑み込む。本心で思ったとしても、そういったことは言ってはいけない。困るからなどという理由ではないが、彼が決めている最低限のルールだ。
 後ろから声を掛けた拓矢は逆に愉快そうに笑みを作った。
「ま、俺らから見れば面白かったけど。当事者じゃないってのはいいことだ」
「そうハッキリ言うってことは、当然殴っていいってことだよな?」
 じり、とふたりの距離が詰まる。
 立ち上がり、壮絶な笑みを従えて迫る浩司は修羅を思わせ――故に拓矢は脱兎の如く逃走に転じた。
 その後は、いつも通りの馬鹿騒ぎとなった。


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